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イタリアの運営は10年前から比べると格段の進歩だった

 キリンカップのゴールから

 福田の右からのクロスを北沢が相手の前へとび出すようにして頭にあてた6月9日の対スパーズ、先制ゴールを見たとき、一瞬1968年対アーセナルの釜本のダイビング・ヘッドが頭をよぎった。と同時に、得点へのアプローチにあのときよりも幅が出ていることをうれしく思った。

 まず左からの速い攻めこみから、クロスが右のファーサイドへくる。ラモスと福田の2人がいて、福田が取ろうとしたが、バウンドが高く、相手のDFがけり出してタッチラインを割る。スローインからカズが持って、相手との1対1のフェイントから、少し中へはいって、ボールを後ろに流し、福田がドリブルして、DFと併走して右足で中へ、そのニアサイドへ北沢がきた──という経路だった。

 この得点は、それぞれの、ひとつひとつのボールタッチや走りこみが狙いどおりだったから成功したのはいうまでもないが、これまでの日本になかったプレーといえば、スローインからカズが中へドリブルしたこと、これで全体の流れからいえば一種の「溜(た)め」となり、緩となって、次の手順の成功のもととなったことだ。

 2点目はラモスからのクロスを、左へあがっていたカズからノーマークでうけてのシュートで、相手DFはオフサイドを取るつもりだったのかどうか──2人の判断と技術の合作したゴール。

 3点目も後ろからのボールをカズが受け中へパスを出すかと思ったDFの意表をついて反転し、DF2人の間をかけ抜けてGKと1対1の形でシュートした。カズがボールをうけるときに、武田(だったようにみえた)が中へ走ったために、DFが分散したのが第1のミソ。あの位置なら前へ出たくなる(オフサイド)ものだが、タテでなくヨコ(ゴールラインに平行に)に動いたところがよかった。

 相手のスパーズがガスコインやナイム、マバットというパスを出す組み立て役を欠いて、ベストでないのが不満だったが、日本代表が気迫、技術、戦術、動きなどすべての面で上だったことは明らかだった。

 これは代表選手が、ひとつのチームになってきたこと、そして、一昨シーズン以来の急速な日本リーグのレベルアップ。激しく高い技術の試合をくりかえしてきたことが大きい。

 選手育成の面からゆくと、この日、もっとも目立った選手、もっとも効果的なドリブルやパスをした選手がラモスとカズというブラジル育ち。つまり日本のこれまでの育成システムと別のルートで育ったということに注目しておきたい。

 といって従来のシステムが、どうこうと言うのではない。日本のサッカーも、ようやくこうした幅のある選択を認める時期、認める人が多くなった時代にきたといえるだろう。


 イタリア国鉄の特別車

 “これはすごい”ステップをあがって、車内に踏みこんで、まず驚く、ソファーとテーブル。3人用のセットが3組、1人用が1組。ふーむ、これがリビングルームか。

 その向こうはコンファレンス・ルーム、長い机をかこんで22のイスが置かれ、長机の上にはパソコンの端末機が3台。それに電話機も3台。正面に大きなテレビもある。

 「電話は車内からダイレクトで日本にもつながりますヨ」と係員がいう。リビングとコンファレンス・ルームとの間に小さなバール(BAR)のカウンターがあって、エスプレッソやカプチーノ、紅茶やビール、それにサンドウィッチなどのサービスもある。

 前に乗ったときは、電話は無料だったのが外国人記者やカメラマンが、どんどん使ったので、今は有料になった──とはある日本人カメラマンの話。

 1990年6月30日、ミラノのスタツィオーネ・チェントラーレ(中央駅)。フィレンツェへゆくために少し早目にプラットホームへきたら、最後尾に「PRESS」と書かれた車両があり、乗ってみたら、これ──Ferrovie Italiae(イタリア鉄道)の誇る特別車輌、走る会議室ともいうべきコンファレンス・カーだ。


 中休みはアッという間に

 6月8日からはじまったワールドカップも6月21日に1次リーグが終わり、中1日置いて23日から第2次戦の第1回戦、1日2試合ずつ4日間行われて、26日でベスト8がすべて出そろい、きょう30日と7月1日は準々決勝。7月3日と4日に準決勝、7日に3位、8日に決勝──といよいよ大詰めにはいっていた。

 オッタビ・ディ・フィナーレ(Ottavi di finale=8分の1決勝)とこちらでいう第2ラウンド1回戦の最終日、わたしはボローニャでベルギーがイングランドに敗れるのを見た。そしてボローニャを午前1時26分発の列車に乗って、ミラノに朝の4時15分に到着した。つぎの、6月28日と29日はプレスセンターでビデオを見たり、原稿を書いたりして、中3日のフリー・デーはアッという間にすぎてしまった。

 10年前にイタリアでヨーロッパ選手権を取材したときには、期間が短いせいもあったがゲームの合い間に、もっと動きまわっていたはずだが・・・・・・などと思いながら、自分の違いもさることながら、10年間のイタリアの開きの大きいのに改めて気がつく。


 1980年と1990年

 10年前にミラノの一流ホテル「カブール」から日本への電話が通じなかったこと。

 ナポリのプレスセンターで日本への通話を申し込んだら、イギリス人の記者が「ニッポンへかけるんだって、ボクはロンドンへ申し込んで、まだ30分まっているんだヨ。あなたは明日までかかりますよ」と笑ったこと。

 そんなイタリアで、いま列車のなかから、日本にダイレクトに電話をかけることができる。

 日本でもここのところ新幹線のシートはずいぶんよくなってきたが、こうした会議用のイスをこれほど立派にしてみせるところに、イタリア人の美意識と、同時に、いまのイタリア経済の豊かさがあるといえるだろう。

 電話のダイレクトコールは、近代的な通信設備が整ったことのあらわれだろう。それはまた各会場の記者席に2人に1個の割合で小型テレビを備えるところにも表れている。もし10年前にテレビを置いたとしても満足に映りはしなかったろう。

 なにしろ80エウロパ(欧州選手権)のときは試合記録もなかった。

 もらいにいったら、係が「記録って何のことだ」という。

 “試合の成績、つまり2-1で××が勝った”とか“得点は○○選手”“レフェリーは▽▽”・・・・・・のたぐいだといったら、「アナタは試合を見たでしょう。それならアナタの方がよく知っている」などというから、“FIFAはワールドカップのときに記録を配っている、UEFA(ヨーロッパ連合)は配らないと、言うことなんだナ”とだめ押しをしたら「上司にきいてみます」とどこかへいって、それっきりだった。


 記録・分析の進歩

 それが、こんどはどうだろう。プレスセンターにはコンピューターの端末がはいって、試合の記録も自由に引き出せる。1次リーグやオッタビオ・ディ・フィナーレで、バーやポストに当てたシュートは何本か、なども項目を指定してキーを叩けば、たちどころに並べて見せてくれる。試合後20分くらいで公式記録、それも、ゲーム分析では、両軍のクロスパスやシュートがゴールにとんだ数、はずれた数を背番号別、時間別にプリントして配布してくれる。

 記録のコンピューター化は1982年のスペインW杯から始まった。当時は古い記録をひき出せるだけ。84年の欧州選手権、86年のメキシコW杯でも、少しずつ便利になったがプリンターのスピードが遅く、わたしはもっぱら選手のプロフィールを集めただけだが、こんどは選手のプロフィールなどは簡単にし、大会の新しいニュースの容量を多くしているようだ。ニュースのなかには、監督や選手の記者会見での談話を英語とイタリア語で、また世界各国の新聞からの抜粋を集めてもいる。コンピューターのおかげで、プレスセンターにいればW杯の情報をカバーできるようになっていた。

 ワールドカップはひとつの競技団体が運営するのでなく、イタリアの各部門の有能な人を起用しての大イベントだし、10年前のヨーロッパ選手権とは規模が違うのも当然だし、また、この特別な催しでイタリアが現状そのままと見ることはできないにしても、これほど、なにからになにまで、美しく、大きく組織的にイタリアが動くということは、いささか考えられないことだった。

 10年間で、これだけ変えられるのだったら、日本のサッカーだって、そのうちに、うんとよくなるのではないか、2002年のワールドカップの招致というのはいまの日本サッカーの力から見れば分不相応に見えるかも知れないが、10年後にはワールドカップの開催も大丈夫という状態になっているかもしれない。

 考えごとをしてメモをつけているうちに列車はロンバルディアの緑の野をすぎてエミリア・ロマーニャ州を東南に向かっていた。

 もうすぐボローニャだ。フィレンツェまでは1時間だナ。

 イタリアの10年間の変革から、日本サッカーの、今後の10年へ
の期待―――そして“花の都”への憧れに、なんとなく心がたかぶったわたしは、立ちあがり、エスプレッソを飲むためバールに近づいた。

 “会議室”と“リビングルーム”は快適に走っていた。

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