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花の都フィレンツェでの過酷な延長とPK戦

 PK戦の暗、ストイコビッチ

 正面スタンドからみて、左手のゴールだった。

 午後5時からはじまった試合は、90分を終わって0-0,15分ハーフの延長も得点は生まれず、2時間の長丁場をへてPK戦となりゴール後上方の電光板には「CARCI DI RIGORE」の文字が浮かんでいた。
 
 1990年6月30日、ワールドカップ・イタリア大会は準々決勝にはいって、ここフィレンツェでアルゼンチンとユーゴスラビアが戦った。マラドーナや、ブルチャガ、ジュスティらのけんめいの攻撃も、ユーゴのストイコビッチのみごとなドリブルとクロスパスも、試合を決することはできず、ゴールキーパーとキッカーの1対1の対決に、準決勝進出をかけることになった。
 
 センターサークルに座りこむ両チームのイレブンから、まずアルゼンチンのDFセリスエラがキックマークに向かった。
 
 ユーゴのGKはイブコビッチ、ポルトガルのスポルティング・リスボンで働く29歳、この日の試合でも再三ピンチを防いだが・・・。
 
 セリスエラは右足で右へ、読めなかったイブコビッチ。ボールはネットを揺さぶってアルゼンチン1-0。
 
 ユーゴの先頭は、この日もっとも目立った10番・ストイコビッチ。右足のサイドでけったが、ボールは高くあがって左上のバーを叩いた。頭をかかえるストイコビッチ。
 
 アルゼンチンのGKゴイコチェアはまず幸運にめぐまれた。


 マラドーナの失敗

 2人目、アルゼンチンのブルチャガは右足で左上へ、イブコビッチは右へ(キッカーからみて)反対へとんだ。2-0。

 ユーゴのキッカーはプロシネツキ。若手No1としては注目される金髪・長身のMFは、右足で左下へきちっと、鋭くけりこんで2-1。

 3人目、アルゼンチンはマラドーナ。このキックの名手がなんと左足でGKの近くへ弱々しいシュート。イブコビッチがつかむ。

 マラドーナとすれ違うゴイコチェアが、握手をして目を見つめる。以心伝心──。だがユーゴ3人目サビチェビッチは成功。

 アルゼンチンの4人目はトログリオ、後半からオラルティコエチェアと交代していたドリブラーは右サイドキックで右をねらったのがポストに当たってはねかえる。マラドーナの失敗の連鎖反応というべきか──ユーゴの4人目に背番号5のハジベギッチが立ちあがって歩きだそうとしたとき、控え審判の高田氏が、歩みよった。どうやら届け出た順番と違っていたらしい。7番のブルノビッチがキックマークの位置についたが、心の用意ができていたのかどうか、サイドキックは力が弱くGKゴイコチェアが防いだ。2-2。


 ゴイコチェアの2セーブ

 5人目はアルゼンチンのデソッティ、こちらはストライカー。長い助走を、しかもスピードをあげ、シュートも左下へピシャッといった。イブコビッチは方向は読んだが、いっぱい手を伸ばしても届かなかった。

 そして、ユーゴは先ほど順番の違いを指摘されたハジベギッチ。右足で右上を狙ったが、ゴイコチェアはみごとに予測し、セービングした。3-2。

 両手を広げて大声をあげるゴイコチェア。マラドーナがとんでいって抱き合った。

 第2戦のソ連戦でレギュラーGKプンピードの故障のため、代役となった控えのGKゴイコチェアが世界チャンピオンのゴールを守り、ついにマラドーナの失敗を救って準決勝進出への殊勲者となった。

 ベンチからとび出して抱き合うアルゼンチンの控えのプレーヤーやコーチ陣、バルダーノもいた。

 やがてスタンドから「バモ、バモ、アルヘンチーナ(ゆけアルゼンチン)」の合唱が起きる。それにあわせ、マラドーナやイレブンが手をあげ、踊りつづけた。


 緩急自在、ユーゴの秀才たち

 PK戦に至る、この日の2時間に及ぶ試合も35度の暑さの中でのタフな戦いだった。 前半の30分間はアルゼンチンが小さく、小さくつないで攻め、ユーゴは大きなクロスを使って早い展開をはかり、両方の特色が出た。

 ブラジルという強敵を倒したマラドーナはボールタッチの瞬間には、やはり魔術をみせる。右へ出てのクロス、止めるとみせてのダイレクトパス、彼がふれたボールが生き生きと、味方へ彼の意志を伝えるのが面白い。

 しかし左足はやはり痛むのか、相手と接触すると倒れ、痛そうな表情になる。

 ユーゴの方は26日のスペイン戦で2ゴールをあげたストイコビッチが自由に動いてボールを拾い、外へ出てドリブルし、中へクロスを送り、あるいはキープして仲間のフォローを待ち、緩急自在の展開を演じる。

 前残りの位置から、パスを受けにもどり、右足アウトサイドでボールをタッチしながらターンして相手をかわし、前方へ向きなおるうまさには、思わずヒザを叩く。密着してかわされたセリスエラが反則で倒すほかに止めようがない。

 若いプロシネツも評判どおり。彼が第2列からスタートして横パスを受け、相手のそばをすり抜けるとき、一度、ふっとスピードを落としておいて、つぎに、ピューンと出た。やはり上手なプレーヤーは若くても、これができるとうれしかった。

 スローテンポを基調として、みごとなフットワークで相手を悩ました1970年代のユーゴ代表チームも楽しかったが、こんどのチームの方が切れ味という点では魅力がある。


 マラドーナと86年の仲間

 マラドーナをマークしていたサバナゾビッチが2回目のイエローカードで退場となり、ユーゴは10人で戦う不利となる。

 DFは崩れをみせず、しっかりしているが攻撃に人数がそろわないのは致し方ない。その数の不足を補うためにストイコビッチのキープ力が光る。

 アルゼンチンのチャンスで惜しかったのは、後半37分のルジェリのシュート。彼が相手のパスを奪って右のカルデロンへ。カルデロンからマラドーナ、マラドーナからブルチャガ、更にトログリオとつないで、トログリオが左前に流しこんだのをルジェリが走りこんだ。GKイブコビッチが好判断でとびだしてシュートを防いだが、86年優勝チームを偲ばせる展開。

 そのあと、こんどはマラドーナが右から左へ中距離パスを送り、ジュスティが受けたが、相手DFともつれてシュートは弱かった。

 第2列、第3列の攻めあがりは、現代のサッカーではあたり前になっているが、アルゼンチンのカルロス・ビラルド監督は、2人の中央DFとリベロによって守りを固め、後は相手に応じて、全員が攻めあがるチームをつくって、86年にメキシコW杯のチャンピオンとなった。彼のその理論と練習を編集したビデオを、私は何度も見た。

 その攻めの形があらわれると、なんとなく懐かしくなる。

 ただし、ブルチャガは86年にくらべると明らかにシャープさに欠け、ボールを取るさいのスピードや正確さも落ちている気がするし、ジュスティやルジェリにしても、とび出して、相手の守りの痛いところへはいったときでも、4年前のような“自信”がないようにみえた。

 暑さで動きの鈍った両チームに延長の15分ハーフは過酷だったろうが、フィールドが影にはいったのと、決着をつけたいという気力で、見るものには短く感じる30分だった。

 アルゼンチンにはデソッティのノーマークヘッド。ユーゴにもサビチェビッチのシュートがあり、終了の少し前にはブルチャガの幻のゴール(胸のトラップをハンドと判定され)もあったが、結局は0-0、PK戦にはいったのだった。


 長時間試合、インタビュー、またインタビュー

 試合後の記者会見で、まずビラルド監督が語り、ついでマラドーナが席についた。彼が答えるのを見ながら、わたしは、プレスセンターの外へ出て、監督が出てくるのを待った。

 1979年にサンロレンソをひきいて来日したときに、会っていらい、カルロス・ビラルド監督とは、アルゼンチン在住の北山氏のおかげでつき合いができるようになった。

 1987年1月にマラドーナを軸とする南米選抜と日本リーグ選抜の試合を計画したとき、南米選抜の監督を彼にひきうけてもらったこともある。

 彼のサッカーにかける熱意は、あのマラドーナが「ビラルド監督ほど、サッカーの好きな人はいない」と、いっていることからでも知れる。

 86年の優勝から、こんどの大会に代表チームを編成するにはトップクラスの海外流出があり、しかもケガの多いマラドーナを中心にする宿命を負っているだけに、ずいぶんたいへんだったろう──。

 建物から出てきたビラルド監督に、オメデトウと、握手をしたら「グラシアス」といいながら、ちょっと目がうるんだ。

 その監督の前へ、マイクがつき出され、ブラジルのテレビや、アルゼンチンの放送局のアナウンサーたちが集まってきた。

 合同記者会見だけではすまされない、南米のメディアの熱心さと、それにこたえて、1人1人きちんと対応する監督をしばらく見ながら、2時間半の激闘のあと、まだマスコミとの長い時間を持たなければならぬプロフェッショナルの仕事──。

 メジャースポーツの代表チーム監督のむずかしさをあらためて思った。

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