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ヨーロッパでも認められた日本の活動派カメラマン

 トリノのプレスルームで

 プレス・ルームは大混雑だった。カメラマン達の重い器材が、いっそう場所を狭くしていた。隅のイスに腰をかけて、その忙しい人の動きを見ながら、トリノも、今日で終わりなんだ──と思った。

 1990年7月4日、イタリア・ノバンタ('90)は準決勝。前の日にナポリでアルゼンチンがイタリアと1-1で分け、PKのシュートアウトで勝って(4-3)前回メキシコに次いで決勝へ進んだ。1978年に自国での開催(優勝)から、82年(二次リーグ敗退)、86年(優勝)と、今回をあわせて、4回の大会で3度もファイナルに残る。

 そのアルゼンチンの相手が、この日の試合で決まる。

 トリノは、私には懐かしい町だ。この大会では、すでに1次リーグC組のブラジルーコスタリカ(6月16日)、ブラジルースコットランド(6月20日)を見に来ている。二度もミラノから日帰りだったから、町の中を歩く時間の余裕はなかったが、10年前のヨーロッパ選手権のときには鉄道駅(スタツィオーネ・ディ・ポルタ・ヌオーバ)に近いホテル・コンコルドに3泊した。取材した試合は一次リーグ1組のイタリアーイングランド(6月15日)、2組の西ドイツーギリシャ(6月17日)。


 深夜のスポーツ紙速報版

 地域予選を勝った7カ国と開催国の合計8カ国のナショナル・チームが集結する新しい方式の欧州選手権(EURO'80)は“ミニ・ワールドカップ”ともいわれて世界の関心を集めたのだが、イタリアはその時“八百長事件”に揺れ、パオロ・ロッシも裁判にかけられるという状態で、折角の大会に水を差すという形となっていた。大会運営も不手際で、通信その他マスメディアへのサービスも、さっぱりだったが、私には、ローマ、ミラノ、ナポリ、トリノを短い時間でも回ることができた最初のイタリア旅行だった。

 特にトリノは、名門ユーベントスやトリノの本拠地のスタジオ・コムナーレの風格、そこで展開された、5000人のイングランドのサポーターと、5万人のイタリア人ファンとの“応援戦争”。それをストップする警官隊。3日前のベルギーーイングランドで催涙ガスを使った失敗を生かして、ガスを使わずに、ゴール後ろ上段にいたイングリッシュ・サポーターを下段に移して、ともかくゲームを進行させた手際のよさが印象に残った。

 キーガンやコッペル、ウィルキンスたちの攻撃力を高く評価されていたイングランドがジェンティーレやタルデリたちの粘っこい守りに得点できず、ロッシを欠いたイタリアがグラツィアニの長いドリブルからのカウンターを生かし、タルデリの見事な飛び出しとシュートで締めくくった1ゴールで勝負が決まった。午後8時30分キックオフ、10時35分終了のゲームの試合経過の入ったスポーツ紙が深夜のトリノ駅の立ち売りで販売されたのも、私の驚きでもあったし、“勤勉”“スピーディーな仕事”から遠いハズのイタリアの概念が崩れることにもなった。


 トリノの遭難事故

 トリノの市街の東、ポー河の右岸にある丘の上の大寺院、スペルガ・バシリカ(BASILICA DI SUPERGA)を訪れ、そのすぐ下にあるトリノのサッカーチームの遭難碑の前に立ったのは、今も心に残る。1949年5月4日、飛行機事故で18人の1軍と控え選手、そして役員や記者を一瞬に失ったクラブの悲劇と、トリノ市民、イタリア全土が捧げた哀悼は、若かった私の胸をうつものだったが、30余年後にも碑の前に花が絶えず、彼らを偲ぶ人たちがいるのを知った。

 1982年にイタリアがW杯で優勝したとき、ベアルツォット監督が“優勝の原因”の第一に「イタリア人のシンバチコ(同情)──仲間を思いやる心」をあげたとき、私はすぐスペルガの丘の遭難を思い出したものだ。

 残念ながら、今度のW杯では、トリノではゆっくりする時間はなかったし、アルプスの山々を眺めるチャンスも少なかった。イタリアの西北部にあって、ドイツやフランスの軍隊に度々占領された歴史を持つこの町や、サッカーの名門ユベントスや、2部(セリエB)に落ちているトリノなどのクラブを訪れる機会もなかった。

 「スタジオ・デレ・アルビ」という陸上競技のトラックを備えた7万人収容の大競技場、美しい曲線でフィールドを取り囲むスタンドは、トラックがあっても見やすく、フィールドと一階部分を地表より一段低くし、屋根はロープで吊り下げる形にして特異な外観を持つ、このスタジアムを、新しく作り上げたトリノには、もう一度やって来たい──。


 ドイツに住む沢辺カメラマン

 「ここ、空いてます」──なんとなく、この町への思いを反すうしている私に、馴染んだ声がかかる。

 いつもながらスリムな沢辺克史(さわべかつひと)。ドイツのデュッセルドルフ在住のカメラマンだった。

 カメラ大国・日本から、今度の大会には30人が取材に来ている。

 日本のメディアからの派遣は25人、外国メディアとの契約で来ている人もいるのだから、まさに国際化時代。

 もともとスポーツカメラマンは、フリーで仕事をする人が多いが、20年も前にヨーロッパへ飛び出した富越正秀氏を先頭に、サッカーのカメラマンたちは国際的で行動的だ。

 沢辺氏は1955年10月25日生まれだから34歳。少年の頃から写真を撮るのが好きで、高校生の頃には一眼レンズでスポーツを撮り始めていたという。

 上智大学文学部新聞学科を卒業し、ニュースカメラマンを志したが、1977年にサッカー・マガジンに写真が採用されたのがきっかけとなって、本格的にサッカーのカメラマンとなり、大学時代に勉強したドイツ語を武器に1980年には西ドイツに住むようになった。

 労働力不足の今の日本でも、海外から働きたいという人を受け入れるには、法律的に問題があるが、西ドイツのようにきちんと秩序のある国では仕事をしていくには、なかなかの苦労もあったらしい。

 それでも1984年に労働許可が下り、1987年に永住許可も取って、すっかり、西ドイツでの生活も根を下ろすことになった。

 私が初めて合ったのは80年だったが、1981年には、私のいた新聞社が大阪女子国際マラソンを始める(’82年が第1回)ことになって、参加選手のクリスチャンセンの撮影にノルウェーまで飛んでもらったこともある。


 ドイツの雑誌から注文

 1984年、フランスでのヨーロッパ選手権では、彼が運転する車に乗せてもらって北フランスを走ったこともあった。

 彼の写すシャープな画面はヨーロッパで次第に認められ、スポーツ用具の大メーカー、A社のカレンダーに採用されたり、スポーツ・イラストレイテッド紙のドイツ版(後にスポルツに吸収)の編集長から仕事を頼まれたりするようになった。

 日本に写真を送るのも大切だが、こうしてドイツ、オランダなどのヨーロッパのメディアに「サワベ」の名が認められるようになれば立派なものだ。

 もちろん、その陰には、写真技術だけでなく、企画を立て、メディアへへ売り込まなくてはならない。「自分の思い込みや主張のない写真は、こちらでは採用しない」という編集長たちも、テーマのはっきりとしたサワベの写真には好感を持つらしい。

 イタリアで働くドイツ人選手ばかりのプレー集や、ブンデスリーガのGK(ゴールキーパー)ばかり、半シーズンかかって写すなどの工夫。あるいは経済誌「Forbes」に採用された、日本人でなければ思いつかない「日本のやぶさめ」などの企画は、専門家の間でも評判になったし、’88年欧州選手権の写真集(ナウマン・ゲーベル社刊)での彼の作品群は評価を決定的なものしにた。

 ワールドカップは82年スペイン、86年メキシコと今度が3回目、欧州選手権は84年フランス、88年西ドイツ大会、南米はコロンビア、パラグアイ、ウルグアイ、ブラジル、アルゼンチン、チリ、欧州ではルーマニア、ハンガリー、ポーランド、スペイン、イタリア、フランスなどの各国に出かけた。デュッセルドルフのアパートは3室。そのトイレを改造した暗室が彼の城。

 経済的には3年くらい前から安定した。ジャーナリストは中立でなければならないし、そのためには経済的な自立が大切となる。ドイツ語は、こちらへ来る前から話せたが、その得意のドイツ語と英語の他に、やはりフランス語も、もっと上手に話せるようになりたい──と。


 次はアフリカへ

 私と話す彼の顔を見て、何人かの記者やカメラマンが手をあげ、声をかけて行く、「こことローマでもう大会は終わりだが、今年はどうするの。一度日本へ帰るの?」

 「トヨタ・カップには行きたいのですが・・・・・・」

 日本には仕事では行くが、帰って住みたいとは思わない、とサワベ。

 「アフリカのサッカーがこれだけ注目されるのだから近いうちに、一度行ってみたい」という彼に(ああ、だからフランス語も必要なんだ)、サッカーを好み、カメラを愛する若者が目標を立て、ひとつひとつ着実に、しんぼう強くこなしていく姿を見た。

 試合には、まだ1時間半あるが──彼が去った後、私も一度スタンドの席を確かめておこう。

 イングランドと西ドイツ、1966年のロンドン・ウエンブリーでの決勝(延長で4-2、イングランドの優勝)、そして82年W杯二次リーグ(0-0)以来W杯での対決は3度目。イングランドが勝てば、’86年準々決勝でアルゼンチンに敗れた雪辱戦、西ドイツが勝って決勝に出れば、前回大会に続いて同じ顔ぶれとなる。

 試合をするガスコインや、マテウスたちプレーヤーだけでなく、イングランドと西ドイツの歴史が、そのままがっぷり組み合うことになるのだろう。その二つの巨人の戦いに、60歳代後半の“老”記者たる私も、異郷で働くカメラマンも、7万観衆と、全世界とともに目をこらすことになる。自分の気持ちが次第に高ぶってくるのを感じながら、立ち上がった。

 向こうの方に、ちらっとボビー・チャールトンの姿が見えた。

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