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”有終の美”を飾りさわやかに去った”地元”と”母国”

 6カ国語の通訳さん

 ホッとひと息ついて、ティーカップを取り上げた。

 選手たちが控え室へ引き上げていくと、画面はスタジアム全景に変わった。

 「ティーでいいですか、コーヒーにしますか」

 お茶を、という答えに、グロリアさんが立ち上がってキッチンへ行った。

 隣のいすにいた彼女のお父さんが「イングランドがベリーグッド」だといった。

 1990年7月7日、ミラノの静かな住宅街。私はグロリア・ブレンデス・ラミレスさんの家のリビングルームで、イタリアーイングランドの3位決定戦を彼女の家族といっしょに観戦していた。

 もともと、この日はバリへ飛んで現地で取材するつもりだったが、7月3日(ナポリ)、4日(トリノ)の準決勝の後、5日と6日の2日間で仕事が片付かないため、バタバタするよりは──とミラノに腰を落ち着けた。

 グロリアさんは、自分で「GLOBEL」(WORLDWIDE INTERPRETING SERVICES)という会社を持つ、通訳のプロフェッショナル。

 メキシコ人で、したがってスペイン語はお手のもの、英語も完璧、そしてイタリア語、フランス語、ドイツ語ができ、会社の業務としてはこの5カ国語に、日本語を加えた6カ国語の通訳となっているが、アラビア語もできるとか──。


 外国語上違法とサッカー・スキル

 彼女の語学の勉強は「三ヶ月くらいの基礎を習ったら、つぎは、その国へ行く、ドイツ語なら、ドイツに住んで、ドイツ語の学校へ行く。そうすると、だいたい1年で覚えられる」というやり方だ。

 スキルは反復練習しかしない──というスポーツの考え方からみて彼女の外国語学習はたしかに効果があるだろう。ドイツ語を習っても、毎日、それを使って、繰り返さなければ身につかないだろう。だからドイツに住み、周囲がすべてドイツ人なら、毎日ドイツ語を使うことになり、テレビやラジオででもドイツ語に接して、反復練習するには文句のない環境ということになる。

 日本語も、そうして身につけ、そのため1年間、東京に住んだという。

 6カ国語ができればヨーロッパでは楽だ。こちらへ来ると、記者たちが3カ国語(自分の国の言葉のほかに2カ国語)くらい話すのをみて、いつもうらやましく思うのだが、彼女のようになれば別格だ。

 ベルリンの壁の崩壊や、東欧の大変革のとき、現地へ取材にいく日本のテレビ局から彼女への依頼が多かったとか。

 今度の大会ではプレス係りでなくVIP相手の通訳、ミラノでの最終試合(7月1日)までは、忙しかったらしい。

 彼女を知ったのは86年メキシコW杯のとき、ワールドカップのオフィシャル・ソングの歌詞の翻訳を頼んだりした。さすがに詩を訳せるほどは──といいながらスペイン語を日本語にではなく英語に訳してくれたが、こういうところが、私たちにはとても助けになる。

 日本へ来たとき、たまたま大阪で寿司を食べに行ったらアナゴとか、マグロとか、アガリなどと自分で注文して職人さんを喜ばせたものだ。

 ミラノが好きで、また仕事しやすいというので事務所をかまえ、私も89年にACミランの取材に来たときにも通訳を頼んだりした。


 あげ出しドウフにみそ汁

 今回は彼女の方に時間がなくて、あまり仕事を頼めなかったが、ミラノの私のアパートの手配をし、2部屋の約束なのに、リビングと寝室の仕切りがない(壁でなくカーテンだった)から、約束と違うと、値引きさせたりしてくれた。

 前日の6日は、ACミランの事務所の訪問するのに通訳を頼み、夜に、和食レストラン「ENDO」で食事をした。そのとき、「7日の夜、ミラノにいるのだったら、自分の家でテレビを見れば──。メキシコから両親が来ているので気がねはいらないからと」と誘ってくれたのだった。

 ハーフタイムの間、紅茶を飲みながら、和食の話になる。

 外国を旅行中に日本食を、などということは若いころには考えもしなかった。第一、おいしくなかった。第1回アジアユース(1959年)のとき、バンコクで選手たちといっしょに入った日本食堂の「どんぶり」はとても食べる気はしなかった。

 それが日本企業の海外進出とともに、各地に立派な和食レストランが生まれ、相手に喜んでもらうので利用するようになった。

 ミラノの「ENDO」はニューヨークの「吉兆」やロンドンの「サントリー」のような豪華な店ではないが、日本の家庭料理なのがうけているようだ。グロリアさんは日本通らしく、「ご飯」「鮭」「ホーレン草ごまあえ」「あげ出しドウフ」「みそ汁」「だし巻き」などを喜んで食べた。

 はしを器用に使うのを見ながら、外国人に日本を理解してもらうには、まず和食とはしを使うことから始めればいいかな、などと思ったりしたものだ。

 はしといえば、1960年に日本サッカーのたて直しに来日したクラーマーは、選手たちに「君たちがボール扱いが上手になるのが先か、私が、この2本のはしを使えるようになるのが先か、競争しよう」といったことを思い出す。


 イングランドの覇気

 そんな話をしているうちに、テレビでは後半が始まる。

 前半はイングランドの意欲あふれる攻撃が目立った。ガスコインが黄色カードを2枚で出場できないが、私には新顔のドリーゴの左サイドへの攻めあがりがいい。ドリーゴだけでなく、イングランドの第2列は、たえずオープンスペースへのあがりを見せ、外側のスペースへ2人が出る形になって、どちらか1人がフリーでボールにタッチできるので、ゴール前へのクロスも狙って出してくる。

 イタリアのDFも中央での防御は上手だから、持ちこたえはしたが、もうひとつ外側にふられると、ヒヤっとする感じになった。

 一方イタリアでは、ジャンニーニ、バッジオが、彼ら独特のキープとドリブル、そしてパスで相手を悩ます。攻めて、守備ラインの背後へのパスが通りそうにないとみるとロングシュートがいく。前半にひとつ決定的なチャンスだったのはフェラーの右足のシュートが逆サイドへ飛び、シルトンが精いっぱいのセービングで防いだボールが左ポストに当たったとき、そこにスキラッチがいたから、イングランドは絶対絶命というところだったが、スキラッチは、ボールを押し込むことができなかった。


 痛いスルトンのミス

 後半は、はじめからイタリアが攻めたてた。バッジオ、ジャンニーニ、スキラッチといった小柄な3人が、イングランドのディフェンダーのふところに入るようにして、体をいれ、ドリブルし、攻めこんでいく。DFの左右から押し上げも効果的で、20分ほど一方的な形勢だった。そのイタリアの攻めを防いできたイングランドが後半26分に1点を失う。左サイドのボールの奪い合いでライトが、どこかを痛めて外へ出る。

 そのイタリアのスローインをイングランドが奪ってシルトンにバックパス、GKシルトンはいったん手でつかんだボールを、そのまま足もとに置き、上体を起こして周囲を見た。

 そのとき彼の背後からバッジオが突進してボールをさらい、スキラッチにパス。奪われたシルトンはバッジオを突きのけるようにしてスキラッチへタックルにいく。スキラッチは落ち着いて(立ち上がった)バッジオにパス。

 バッジオはゴールのすぐ前で一人をかわして、けり込んだ。

 バックパスを受けたシルトンは、ひょっとすると、負傷で外へ出たライトの方に目をやったかも知れないが、その一瞬のスキにバッジオにしてやられた。


 ウイニング・ランは両チームのもの

 0-1となって、さすがはイングランド。闘志を高めて積極的に攻め出したから、ゲームはますます緊迫し、80分(後半35分)には同点ゴールをあげる。左のドリーゴからのクロスをプラットが、イタリアDFの2人よりやや後方で、見事合わせたヘディング。

 これこそイングランドという得点だった。その4分後に、こんどはイタリアに2点目。スキラッチのパーカーのファウル(トリッピング)がPKとなり、スキラッチがシルトンの逆をついて、右へ決めたのだった。

 バッジオのドリブルに始まったこの攻めは、彼がゴールに向かって突っかけ、相手を前に右にパスを出し、スキラッチが、例の早い、“飛び出し”でボールをトラップしながら走り抜けたとき、パーカーが振った右足がボールに届かずスキラッチの右足を引っかけてしまった。

 パーカーにとっては不運だが、その直前のバッジオのドリブルとパスのうまさ、そのボールを後方から取って出るスキラッチの“さぁ”というときの瞬間的な強さと速さが生きていた。

 試合が終わって3位受賞を喜ぶイタリアのイレブン、それを祝福するイングランドは、自分たちも、この大会で力いっぱいプレーしたというスポーツマンとしての満足感が表れていた。両チームいっしょになって場内を走り、観客へ手を振るのを見ながら「これこそウイング・ラン、サッカーはやはり、いい競技だと思った」「ベリー・グッド・ゲーム」お父さんはそう言って、ニッコリ笑った。

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