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第1回大会からW杯を全て取材先輩記者ルセロ氏

 選手から記者へ

 頭髪もマユ毛も真っ白だったが、がっしりとした肩と腰、太い腕。ツヤツヤした顔は、あと半年で90歳とは見えなかった。

 1990年7月8日、ワールドカップ・イタリア大会の最終日、午後6時30分、ローマのプレスセンターのワーキングルーム。決勝戦直前の独特の空気の中で、私は、ディエゴ・ルセロが向こうへ歩いて行くのを眺めながら、彼の長いキャリアを思った。

 そう、ここに集まる5000人のメディアの関係者──辛口の批評で知られるブライアン・グランビルも、広い視野のカール・ラドネッジも、あるいは、テレビのコメンテーターを務めるボビー・チャールトンやクビジャスなどのかつてのスターたち、その誰も、ルセロの持つ記録、第1回から、この大会まで、14回のすべてのワールドカップを記者として取材してきた実績に、かなうものはいない。

 1901年(明治34年)1月14日生まれ、本名、ルイス・アルフレッド・シウット(Luis Alfredo Sciutto)は、イタリア系移民の息子としてウルグアイのモンテビオで育った。貧しかったので、小学生のころから働きに出た。ミネラルウォーターのびんのラベル貼りや、電報会社の使い走りなどをしたという。

 そんな中で、彼はウルグアイの男の子の例にもれずストリート・サッカーに親しむ。

 食料品店の主人が会長で、そのポケットマネーでボールを買う──という町のクラブチームの右ウイングとして活躍し、やがてマリトーというクラブを経て1925年にナシオナルに移る。

 トヨタ・カップで日本のファンにもお馴染みのこのクラブはベニャロールと並ぶウルグアイの2大勢力。ホセ・アンドラーデ、カルロス・スカローンなどという往年の大スターがいた。

 名門クラブでプレーしウルグアイ代表に選ばれて24歳という選手の頂期にあったルセロは、パラグアイとの試合で負傷をする。

 半月板の負傷という、現在なら治療回復するのだが、そのころは治療法がわからず、完治しないまま、プレーを続け、結局1929年にベジャビスタ・クラブで選手生活を打ち切る。


 スポーツ記者で戦争記者

 ウルグアイは1924年のバリ、28年のアムステルダムと2つのオリンピック・サッカーで連続優勝して、国内でも人気が沸騰していたが、まだサッカーは生活を支える収入源とはならず、ルセロは選手生活中も電報会社の仕事を続け、一方では新聞に記事を書くようになっていた。

 “ちゃんとした”学校教育を受けなくても彼は人の話を聞き、電報会社でタイプライターを打つこと(当時では珍しかった)を覚え、生まれつきの文才で、ユーモアと風刺のきいた記事を書いたという。

 1930年ウルグアイで開催された第1回ワールド・カップサッカーは彼にはスポーツライターとしての大きな働き場だった。

 サッカー選手からジャーナリストへ、それもスポーツだけでなく広く社会一般へと、自分の興味を追って彼は取材した。

 1934年、英国の“ボートの祭典”ンリー・レガッタに参加したウルグアイ代表クルーを取材するため、ヨーロッパに渡った彼は、そのあとスのローラン・ギャロス、フランス選手権を取材、ヨーロッパのスポーツを通じて広い世界を知り、イタリアでのワールドカップへ足を伸ばした。

 ウルグアイが参加していない大会だったから、新聞社からの特派でなく、彼の“冒険”だったが、こうした積極性が、いつも新しい面を開いた。

 4年後、スペイン内戦を取材するためヨーロッパにいた彼は、フランスでのワールドカップをカバーし、次の年1939年3月28日には、フランコ将軍のマドリード入り(スペイン内戦終結)をウルグアイの放送局ラジオ・カルベを通じて、報じている。

 第2次大戦中の1942年、ブエノスアイレスに移って、クリティカ紙と契約、1945年には新しく生まれたクラリンのライターとなった。ディエゴ・ルセロは、この時からのペンネーム。


 フランコ将軍からシュバリエまで

 第1回大会は、自分の住んでいたところだったし、第2回のイタリアは、たまたまヨーロッパにいた。第3回のフランスも近くのスペインへ取材に行っていたのが幸運だった。同じ欧州でも、あれがスウェーデンだったら、(遠いので)取材に行けたかどうか──。

 こうして初期のW杯を3回連続して取材すると、第2次大戦後は、国際交流のマスコミとファンの関心の高まりが、彼を毎回の大会へ駆りたてた。

 南米連盟の広報誌に掲載されたルセロのストーリーによると、彼のインタビューした相手は──

 ベロン大統領(アルゼンチン)、フランコ将軍(スペイン大統領)、ムッソリーニ(イタリア)、ゲッベルス(ナチス・ドイツ宣伝相)からインディラ・ガンジー首相(インド)、ベン・グリオン(イスラエル建国の首相)などの大物政治家、ピカソやガルシア・ロルカ(スペインの詩人)、シュバリエ(シャンソン歌手)などスポーツを離れても幅が広いという。

 スペイン語の出来ない私には、彼の記事や、電波のコメントのうまさや、ユニークさを語る資格はないが、その幅の広い、ジャーナリストとしての活動と、スポーツでの長いキャリアを聞くと、“恩師”木村象雷(きむらしょうらい)が浮かんでくる。


 オリンピック記者木村象雷

 アムステルダム・オリンピック(1928年)の背泳ぎの日本代表選手だった木村さんは、日本泳法の達人で、水泳の歴史と理論に通じ、アメリカのキッパス監督をはじめ、海外にも知己を持っていた。

 記者生活は同盟通信(今の共同通信)、朝日新聞、函館新報、スポーツニッポン、産経新聞を経て、サンケイスポーツの編集長。

 40年前に、私が新聞社に入ったときの運動部長で、平易な記事を書くことを教えられ「〜は」か「〜が」かという助詞の選択から文章の吟味はずいぶん厳しかったし、新聞の作り方、その根本的な理念と、読ませる、見せるテクニックなどにも大きな影響を受けた。

 英語で小説や古典を読む力があり、外電の翻訳についても一家言があったし、世界的な視野でスポーツを見る人だった。

 部長時代にもオリンピックには自分で取材に飛び出し、ベルリン(1936年)、ヘルシンキ(1952年)、メルボルン(1956年)、ローマ(1960年)と、1948年のロンドン(日本は招待されなかった)を除いて、4度のオリンピックを特派員として取材し、東京(1964年)は定年後だったが、競技場をまわって記事を書いた。

 選手として参加したアムステルダムを加えると、6度のオリンピックにかかわった。

 私が、年をとって編集局長になってからもW杯に足を運んだのは、あるいは木村さんの姿勢がうつっていたのかも知れない。


 ラゲッジ積み残しと特別サービス

 ルセロの握手の感触を確かめながらの回想は「いよいよですネ」という日本の若い仲間の声で破られる。

 世界の大先輩に会った気分の高ぶりからさめて、私は、ホテルへ現実的な電話をする。ホテル・モンディアールのフロントは「エアラインから、私のラゲッジが来ているか」という問いに「着いています。今ここにあります」と答える。

 この日の朝、ミラノのアパートを引き払ってローマへ飛んできたのだが、ミラノ空港へ着いたのが予定よりずいぶん早く、1時間早い便に乗れますよ──との受け付け係のすすめで、12時発のAZ71便を、11時発のAZ95便に変えた。ラゲッジを積み込む時間はどうかと案じたが、美人の受け付けの「ノープロブレム」という明るい声に、つい、つられてしまったのだが、ローマに着いてみると、ラゲッジは手荷物のコンベアーで出てこない。

 空港でチッキのラゲッジが運ばれてこないときの当惑と腹だたしさは、海外旅行特有のものだが、時間をはかって予定を組んでいたのに、つい早い便をすすめられて乗ってしまった自分を笑ったり、フィナーレに、いささか気がせいていたのか、などと反省もした。

 荷物係に相談し、ホテルに送り届けるという確約をもらい、書類にサインして、コピーをもらった。

 ふつう、こういう場合はエアラインで保管し、あとから、こちらが取りにいくのだが、さすがにワールドカップのメディアの特別サービスかと喜んだのだが、実際は半信半疑。

 スポーツジャーナリストで、私よりも旅なれている大住良之氏に話すと、それは、考えられない。ホテルまで運んでくれるなどというのはありえないことです──と言う。

 それが、ちゃんと着いているという。

 「黄色の大型のスーツケースだよ」

 「そうです。あとで部屋へ入れておきます」という返事に、ひと安心した。

 あのとき、荷物はタクシーで送るから、といっていたのは本当だった、と改めてサービスのいいのに驚く。積み込み時間のないのにミラノの空港で搭乗をすすめてくれたのはともかく、そのローマのリカバリーショットは、実に見事ということになる。

 ぼつぼつスタンドに出てみよう。ルセロさんには14回目、私には5回目、さきほど声をかけた東京のZクンには、初めてのワールドカップの決勝だ。

 52MATCH FINALE と書かれた記者用のチケットを持って、私はプレスセンターから外へ出て、競技場へ向かった。人の大きな流れが続いていた。史上最大規模、サービスもいき届いた90年ワールドカップは、あと3時間で終わることになっていた。

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