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格別の素晴らしさ感じたイタリア90次の旅立ちは・・・
機内のテレビで決勝再現
デザートにチーズとブドウをもらう。
イタリア時間(ドイツ時間)のままの腕時計をみて、ああ4時間だったか──と思う。
備え付けのパンフレット(ボード・ブック)の地図からいくと、もうトルコへ入るころだ。すると、先程の川はやはりドナウだったのか──。
機内のテレビがニュースを映す。ワールドカップの決勝が表れ、西ドイツのフェラーがセンシーニに倒される場面に続いて、ブレーメのPKが決まった。
そのあと西ドイツ代表チームが帰国して大歓迎を受けたこと、ベッケンバウアーがアメリカ・サッカーのコーチになる──などと伝えた。
1990年7月10日、“イタリア90”の決勝から2日たっていた。
7月8日にローマで西ドイツーアルゼンチンを取材し、ビア・トリノ(トリノ通り)127にあるモンディアル・ホテルに2泊した私は、この日の朝、レオナルド・ダビンチ空港10時35分発のAZ422便で北へ向かって飛び、12時30分にドイツ・フランクフルト空港着、ここでルフトハンザ(LH)738便で南回り大阪ゆきに乗ったのだった。
「イタリアW杯も、終わってしまった」──トルコのアンカラ(らしい)の町の灯を窓の下に見ながら、8日の試合を振り返る。
先程の機内テレビの試合の場面でも英語のアナウンサーは、アグリー(みにくい)という言葉を使っていたが、「みにくい」とまで酷評しなくても、決してビューティフルではなかった。
なにしろゴールは1点だけ、しかも、84分(後半39分)。そのときアルゼンチンはモンソンが退場(64分)していて10人になっていた。
1-0となって2分後にセンシーニにも「赤」が出て、アルゼンチンは9人となり、終わりの5分ばかりは、全く勝負の興味が失せてしまった。
13回のW杯の決勝で1-0の最少得点は初めてのことだし、退場処分も前例がない。サッカーのグローバルなショー・ウインドウとしては華やかさに欠けた。
日頃、クラブ・レベルの好試合が多く、上質のエンターテイメントを見なれているヨーロッパのマスメディアにとっては「面白くなかった決勝」という判定を下すのも当然だったろう。
厚い守りを破る西ドイツの攻め
その直接的な原因は、西ドイツが前半に7回もあったチャンスに1点も取れなかったことだ。
3人のレギュラーを出場停止処分で欠いたアルゼンチンは、守り重視に徹して、フェラーにはセリスエラ、クリンスマンにはルジェリがマークし、シモンがスイーパーとなって中央を固め、西ドイツのサイド攻撃、特にブレーメに対しては、トログリオとセンシーニをあて、ブルチャガ、バスアルド、ロレンソなども守りに専心した。
西ドイツの一人一人の速さと、競り合いの強さは、こうした相手の防御網をも破ったが、最終ラインを突破するときに、どうしても、合わせるポイントがひとつ、タイミングももうひとつという、きわどいものになり、一瞬の遅速がシュートのはずれとなっていた。
このときにひとつでも点を取れたら、アルゼンチンも守ってばかりはいられなかったのに──。
後半に入って、アルゼンチンは負傷をおして出ていたルジェリをモンソンに代える。
まずリトバルスキのシュートがポストの外を通って、西ドイツの攻撃が再開されたが、西ドイツのスピードについていけなくなったアルゼンチン側に、はっきりしたファウルが増えてくる。マテウスに対するトログリオのボディ・チェックのFKからブレーメのクロスがゴール前を横切り、ベルトルトが飛び込む。しかしヘッドしたボールは高くはずれる。
同じように、ブレーメのFKに今度はフェラーが飛び込んで、これもはずれる──。西ドイツ側は点を取れないのにイライラしはじめる。
こういう相手の心理を読むのがマラドーナの才能、それまで、ほとんどボールにさわれなかったのがドリブルで出ようとする。さすがに西ドイツは2人でとり囲んでつぶすが、このときからんだフェラーに黄色が出る。
53分にビラルド監督はブルチャガをカルデロンに代える。元気な交代選手の個人の突破からチャンスを狙うのが、この大会の彼のやり方、コンディショニングのよくないチームを率いての策だが、この日は、そんな反撃のチャンスはこない。
61分からたてつづけに西ドイツが圧迫する。ブレーメのボレーシュートがあり、クリンスマンの反転シュートがある。
たたみかける西ドイツのすごさと、防ぐアルゼンチンの粘りは、ワンサイドながらスリル満点──。その時クリンスマンの突進をモンソンがファウル。あまりにもはっきりしていたので主審はすぐ「赤」を出した。
ブレーメのPK
せっかくの“乗り”に水を差された西ドイツは、73分にベルトルトに代えてロイターを投入。攻撃的な彼に右からのチャンスを狙わせたのか──。
84分に西ドイツに1点が生まれる。アルゼンチンにバスアルドの突進から左CKがあった。このCKを防いだ西ドイツがマテウスに渡し、マテウスは前方のスペースへボールを送ってフェラーを走らせる。フェラーがボールを取ろうとする前にセンシーニが右足を出してタックル。それに引っかかったフェラーが転倒した。
メキシコの主審コデサル・メンデスはPKを宣告した。
PKのキッカーはマテウスでなくブレーメ(試合後の話ではマテウスがブレーメに頼んだという。足を痛めていたらしい)。
右足のインサイドでのキックはGKゴイコチェアの読みのとおり左へ(GKの右手側)。ゴイコチェアは精いっぱい跳んで、手を伸ばしたが、それより早く、ボールは左ポスト下ぎりぎりに飛び込んだ。
ベッケンバウアーの心配り
午後9時55分から表彰式があり、2位チームから先にスタンドへ上がって一人一人がメダルをもらった。銀を首にかけられたマラドーナのクローズアップが場内のテレビに映ったら、口笛のブーイングが鳴ったのには驚いた。
西ドイツ応援席ではなかったから、イタリア人、いやローマ人の中にはナポリのマラドーナに対して、なんでもブーイングするのがいるのだろうか──。メダルをもらう列のなかにフィジカル・トレーナーのエチュバリアやドクターのマデーロもいた。
勝利監督ベッケンバウアーはさすがに晴れやかだった。「今のサッカーはむかしより、ずっと激しくレベルが高い。いま皆さんが、私たちのころの試合をもう一度見るなら、スタンドで眠くなるでしょう」とまでいっていたのは、選手をほめ、スーパースターだった彼が、いつも表面に立つのを、どうして小さく見せようかという心くばりだった。選手と一緒に喜び合う彼を見て、彼の実力と運の強さを改めて思った。
16年間のワールドカップ
「なにかの飲物はいかがですか」というスチュワーデスの声に目を覚ます。ノートを読み返し、メモを補足しているうちに、うとうとしたらしい。
紅茶をもらい、クッキーを口に入れる。
ヨーロッパへの旅は北回りが多いが、大阪空港が発着点というのでルフトハンザの南回りにしたのは、私には、新しい経験だった。いったんフランクフルトへはいるという点も、この便利のよい空港は嫌いじゃないから苦にならないし、なによりLHは機内の清潔なのがいい。サービスもいい。
そう、1974年の西ドイツW杯で初めてLHに乗ったが、あのときビジネスクラスの食事のメニューは二つ折りだった。今度は表紙つきで、なかは8ページ(内余白が2ページ)。エア・ラインの競争で機内食もすっかり豪華になりナイフ・フォークもプラスチックでなく本式になり、コーヒーも日本向きのマイルドを使っている。
16年間に私は5度のワールドカップの旅をした。
74年西ドイツ、78年アルゼンチン、82年スペイン、86年メキシコ、そして今度──。
どの大会にも不満はないではないがやはり、驚きと喜びの方が大きかった。今でも長い髪をなびかせて疾走するヨハン・クライフやケンペス、あるいはジーコやプラティニ、ソクラテス、そしてマラドーナたちの、ひとつひとつのプレーが頭の中に浮かぶ。
素晴らしい個性と、その組み合わせをみるサッカーの楽しみ、そして、そのチームを生み出す、クラブやリーグの組織、さては背景となる社会を眺める喜びは──格別だった。
90年ワールドカップは終わったけれど、私たちのワールドカップへの巡礼、サッカー行脚はまだ終わることはない。
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気がつくと、飛行機はバンコク空港へ向かって着陸態勢にはいっていた。
うん、2年後の欧州選手権、スウェーデンに行くには、どのルートをとろうかな──。
日本に近づく飛行機の中で、私はつぎのヨーロッパ選手権の旅を考えていた。