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トリノの丘の上で

 トリノの丘の上で

 80年ヨーロッパ・サッカー選手権決勝大会(6月11日-22日イタリア)を主に、フランクフルト(西ドイツ)、チューリッヒ(スイス)、ワシントン(アメリカ)などをかけ足で回りました。試合についてのレポートは、充分とはいえないにしても、すでにいろいろな機会でお伝えしましたが、今度はサッカーを通してみた、初めてのイタリア、久しぶりのヨーロッパの旅を連載させてもらうことにしました。

 わずかな滞在で、見聞も多くはありませんが、若いころからイタリアに憧れ、その歴史や風土に興味を持ってきたオールドボーイのイタリア紀行、ある意味では、わが心の内なる「イーターリア」というところでしょうか。

 第一回は、トリノでの墓参り・・・・・・・・・1949年の飛行機事故で全員が死亡したトリノカルチョ・チームのお話です。

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 その老人はつぶやくように読みあげていた。“バレリオ・バチガルーポ・・・・・・カピタン(主将)バレンチノ・マッツォーラ・・・・・・」
 かたわらの少女と青年、おそらく孫にあたるのだろうか。おじいさんの涙ぐんだ声を聞きながら、二人もまた目をうるませていた。

 トリノ市の東、ポー河の右岸に大きな起伏をつくる丘陵地帯、その丘が最も河に近づいてくるあたり、高度672メートルの小さな頂きにバシリカ(大寺院)がある。一帯の地名をつけて人はスペルガのバシリカと呼ぶ。特徴のある黄色い壁と、ドーム状の屋根は、トリノの市中からでも遠望できる。そのバシリカの正面から左手へ、塀にそってゆるやかな坂をくだっていくと、十字架と大理石の碑が石垣にはめこまれている。

 「これがあの1949年のトリノの悲劇の地か」ひとりうなずくわたしに、運転手がささやいた。「アエロプラノ(飛行機)はあの方向からきた。そして、木立をなぎたおしてここへ・・・」

 礎石には「ラソシオツィオーネ・カルチョ・トリノ」「イタリア・スポーツの栄光であったチャンピオンたちの不滅の記録のために・・・」そして、一番下に、「1949マッジョ(5月)4」の文字がある。


 悲劇の日から31年

 そう、1949年5月4日は、トリノ市民を、いやイタリア全土を、驚きと悲しみにおとしいれた日だった。

 対戦が終わってヨーロッパに平和がもどってようやく4年、荒廃の中から立ち上がろうとする市民の楽しみは、ただひとつ、「カルチョ(サッカー)」だった。

 そのイタリア・リーグのセリエA(一部)のなかで、トリノはトップを行く強チーム、1946年から48年まで3連勝。48-49シーズンも、あと4週を残す時点で勝ち点4のリードを保っていた。右のエツィオ・ロイク、左のV・マッツォーラの両インサイドとCFのガベットの強力センター・スリーを持つ攻撃ラインの破壊力はすさまじく、前年のリーグでは40試合で125得点を記録していた。

 このとき彼らは、ポルトガルのリスボンでの親善試合を終えてトリノ飛行場に帰還の予定だったが、バシリカの壁に激突した大惨事で、乗組員ともども、役員、同行の記者、そして選手全員が生命を断ったのだった。

 なかに10人のイタリア代表選手もいた。リーグでの好成績と同時に、彼らはまた大戦直後からの国際試合でも10戦7勝1分け2敗の好成績で、イタリア人の希望と誇りの支えになっていた。

 悲劇から31年を経たいま、飛行機が激突した石壁は草がおおい、折れ、ヘシ曲がった木々は、青葉をつけた若木にかわっている。

 墓の前はきれいに掃き清められ、花が供えられていた。礎石のそばには鉢植えも置かれていた。その赤い花は、いまもなお彼らと彼らを惜しむ大衆の心を結び合わせているようにみえた。

 この日、1980年6月17日昼すぎ、私はトリノの中央駅でタクシーをひろった。コレ・デ・マッダレーナへ行ってくれというと、運転手はよくわからなかったようだが、英語のできる仲間の助け船で「パノラマを見たい」というこちらの意図が通じたらしい。町の中心部からしばらくポー河沿いに走ると、進行の正面山頂に建物が見え、運転手が指さして「バシリカ」と叫ぶ。ケーブルもあるらしい。やがて右折し、山中にはいる。高い所で高度700メートル少々、道路の周辺にしゃれた家が立つ。辞書を引くと、イタリア語の「コレ」は丘という意味もあるようだが、こういう場合は普通には、「コル」(鞍部=山の低くなったところ)を意味するはずで、マッダレーナの峠ということになるだろう。そこからスペルガのバシリカまでは景色の良い丘の上のドライブとなる。

 案内書によると、バシリカ(BASILICA)は、古代ローマで裁判の法廷や商業取り引きに使用された大きな公共建築で、矩形の平面をもつ。後にキリスト教が公認されてから教会建築にもこの様式が使われるようになったため、細長い矩形の平面の大きな教会堂もバシリカと呼ぶようになったとある。ここのバシリカは18世紀にサボイ公国とサルジニア島を合わせてサルジニア王となったアマデウス2世が、フランス王ルイ14世の軍隊を退けた、感謝のために建立、また、サルジニア王の墓所ともなっているという。建築様式の上からも、なかなかのものらしい。もっともヨーロッパ、とくにイタリアへきて建築の話をしはじめればキリがない。

 私には、まずバシリカの前庭からのパノラマが第一だった。
 はるか北につらなるヨーロッパ・アルプスの連山。眼下のポー河と、その流域、トリノ市街の景観は、まことにすばらしかった。雲のため判然とはしなかったが、真北にあるはずのマッターホルン(イタリア名はチェルビー=4,478メートル)、その右にモンテローザ、左にはモンブラン(イタリア名=モンテ・ビアンコ)とおぼしき山塊を見つけた。

 それら北方の稜線まで100キロぐらいだろうか、そして西南には、ポー河の水源モンテ・ビソ(3,481メートル)がそびえる。

 北と西に高い山をめぐらし、南に丘陵地帯をもち、ピエモンテ(山麓)と呼ばれるこの地域一帯は、古代ローマ時代から、西北の辺境の町として重要だった。モンテ・ビソの少し北にあるモンジェネブロ峠(1,854メートル)は、ハンニバルのアルプス越え(紀元前218年)で有名だ(北のセント・ベルナルド峠という説もある)。

 そして、世は移って、中世となりさらに近世に移って、“蛮族”であったゴール人たちが強大になり、ドイツ皇帝やフランス王の軍隊が西から北からイタリアへ侵入してくるとき、トリノは何度も彼らに占領され、同時にまた彼らの文化とまじりあってゆく。そして17世紀にはこのサボイ公国がイタリア第一の大国となり、1861年にエマニエル二世がイタリアを統一した。のちにローマに移るまでの5年間、トリノはイタリアの首都でもあった。

 古代ローマでは辺境だったトリノが、近代イタリアの国家統一の原動力となるのは、まったくこの西北の国境、すなわちフランス、スイス(その背後のドイツ)に近く、近代化の進んだ北方ヨーロッパの影響を受けやすいことにあったのだろう。


 6歳のマッツォーラも葬儀に参列

 そんなトリノにサッカーが“輸入”されたのは1887年、最初にクラブができたのはフットボール・クラブ・インテルナチオナーレ(1890年、インターミラノとは別)、ついでFCトリリネーズが1894年に生まれる。やがてすぐ、南の港町ジェノアと東のミラノへと広まる。

 1898年にフェデラツィオーネ・イタリア・デル・フットボールつまり、イタリア・サッカー協会の前身がトリノやミラノのチームを中心に設立され、1905年のFIFA(国際サッカー連盟)創立とともに加盟する。

 古代ローマのハルバスツウムや中世のカルチョ、つまりサッカーの原形を歴史に持つイタリアに、英国からの近代フットボールが浸透するのは、それほど時間はかからないが、“新しいもの”を受け入れる窓口になったトリノの役割は大きい。

 なかでもユベントスとトリノの(インテルナツィオナーレとFCトリネーズが合体)の2チームがライバルとして市民の人気を2分しながら、ミラノのチームとともにイタリア・リーグの先頭に立って活躍する。79-80シーズンの上位はトリノとミラノの4チームで占め、ヨーロッパ選手権代表22人のうち17人も四チームから出ている。

 イタリア・サッカーの流れを思い起こしながら、町と、その周辺の景観を楽しんでいたわたしは「カルチョの×××がむこうにある」という運転手の言葉に、1949年5月の悲劇を思い出し、彼とともに墓所を訪れたのだった。

 葬儀は国葬となり、長い列が涙して別れを告げた。その中にバレンチノのむすこアレサンドロ・マッツォーラ、当時6歳もいた。すでに読者はご存じの、インター・ミラノのゲームメーカーとして、のちに名を輝かす彼は、そのころすでにボールをけっていたという。

 一瞬にして18人の一軍と控えを失ったトリノは残りの試合をすべて、ジュニアで戦うことを許される。彼らが試合する相手チームもまた、ジュニアが出ているのだった。そして、残りゲームも勝利で飾ったトリノは1948-49シーズンも優勝し、戦後の連続四回優勝として記録に残る。

 戦後、間もない日本では、この悲劇はそれほど話題にはならなかったが、私はライフ誌だったかのグラビアで、彼らの国葬を知り、その長い葬列と、嘆き悲しむ多くのファンを知って、深い感銘をうけた。

 戦中を生きのび、戦後の荒波のなかで、ときに朝食にカボチャを主としながら、東西対抗などの“ビッグ・ゲーム”をしてきた、わたしたちの世代と、あまり変わらぬ彼らに共通の親しみがあったのかもしれないが、プロ選手の死に涙する大衆の姿は、当時のわたしには強いショックだった。あるいは、わたしがスポーツジャーナリズムへ足を踏み込む、ひとつの動機になったのかも知れない。

 彼らを一挙に失ったあとのトリノの苦闘、イタリア代表チームが次第に守備的になっていったこと・・・・・・、そのころ30歳だったバレンチノ・マッツォーラより5歳年少のわたしが、いまこうして55歳になって、ピエモンテの小さな丘で彼らの十字架と対面する不思議さ・・・・・・。試合と旅行の忙しい日々のなかで、急に訪れた静寂から、しばらく立ち去り難い思いだった。

<サッカーマガジン 80年9月10日号>

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