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バイエルンからアルプスの南を想う

 フランクフルトの物価上昇

 久しぶりのヨーロッパは物価高だった。1980年6月7日、LH(ルフトハンザ)651便は予定どおり午前7時30分フランクフルト空港に着く。空港からは市内の中央駅(ハウプト・バーンホフ)まで電車を利用する。6年前は1マルクだったのが2マルク50(ラッシュ時で)にあがっている。もっとも、地下鉄が市の中心部のハウプトバッヘまで開通していて、空港から乗りかえなしでゆけるのは便利だ。中央駅前は掘りかえしていたのが、すっかり整備された。その駅のすぐそばにあるサボイ・ホテルはシングルで120マルク(一万五千円)。コンチネンタル・ブレクファストと呼ぶ朝食(パンにバター、ジャム、コーヒーまたは紅茶)が付き、15%のサービス料と、税金もふくんでいるのだが、74年ワールドカップのときのヘッシッシャー・ホフはりっぱな調度ともっと広い部屋で65マルクだった。

 そのヘッシッシャー(ヘッセン州という意味だろう)ホフ(館)のレストランで、まず、西ドイツの最初の夜の食事をしたら、これがコールド・サーモン(16.5マルク)、スープ(8マルク)、ビーフステーキ(45マルク)、デザートにサービス料などが付いて合計85マルク(一万円)。日本より食、住の格段に安いはずの西ドイツで、日本とかわらぬ、いや日本以上の値段とは・・・・・・旅人には、ちょっとしたパンチだった。(もともと、フランクフルトは西ドイツの中で、物価の高いほうでもあるが・・・・・・)

 80年ヨーロッパ選手権決勝大会でイタリア行きを思い立ったとき、まずドイツ経由を考えたのは、やはり文豪ゲーテの「イタリア紀行」などが、どこか頭の底に残っていたからなのか。それとも、イタリアとくれば、すぐドイツと並べ、日・独・伊の枢軸同盟が浮かぶ戦中派の故だろうか――。

 はじめのうちは、フランクフルトからミュンヘン、そしてオーストリアのインスブルックからブレンナー峠をへてベローナへの、ゲーテと同じルートを通ってみたいと本気で計画していた。しかし、イタリア組織委からの取材許可が届いたのが5月20日。本来なら4月中にくるはずのものが20日も遅れては、旅の手順はすべて狂ってくる。結局、フランクフルト、ローマ間は飛行機にしてしまうのだった。


 “皇帝”の『ビバ・フスバル』

 フランクフルトの3泊で、頭の中のヨーロッパ化が進み、野球の国からサッカー地帯への切り替えがはじまる。中央駅や地下のショッピング街にある書店にヨーロッパ中の新聞が来ていて、それぞれにEUROPA80の記事のあるのがありがたい。

 その地下センターのウインドーで、ベッケンバウアーがボールを持って笑っているディスク・ジャケットが目にはいる。『ビバ・フスバル(サッカー万歳)』ヨーロッパ選手権のためのLP、デアバル監督のインタビューと試合の日程つきとある。

 内容は2、3分ていどの短い歌を10ばかり、それとスタジアムでの応援コールの組み合わせ。日本でもおなじみの「ケ・セラ・セラ」や「ウイ・ゴット・ザ・ホウル・ワールド・イン・アワ・ハンズ」、それに欧州最優秀選手のケビン・キーガンがうたう「ヘッド・オーバー・ヒールス・イン・ラブ」やロッド・スチュワートと78年ワールドカップ、スコットランド代表選手たちによる「オレ・オーラ」もある。A面の最後に1954年ワールドカップで西ドイツがハンガリーを破って初優勝したときのアナウンスの再現も。23マルク95、約3千円はまず格好の買い物だ。

 その大盤とは別に、「ヘッド・オーバー・・・」と「ムーブ・オン・ダウン」のキーガンの小盤も売っていた。グラウンドでのあの鋭い動きとは別の、人なつこい目をした彼は、もともとビートルズ・スタイルがあっているから、レコードのカバーもさまになっている。

 チームのサポーターズ・クラブとは別に、彼にはケビン・キーガン・ファンクラブ(P.O.Box 43 DONCASTER,SOUTH YORKSHIRE ENGLAND)もあるとか。


 アディダス社の「客をもてなす心」

 ローマへはいる前日、わたしはニュルンベルクへ飛び、そこから23キロのヘアツーゲンアウラッハへゆく。人口1万4千の小さな町だが世界的なスポーツ用具メーカー『アディダス』の本拠のあるところ。

 日本でも3本線(スリー・ストライプス)と3つ葉のクローバーのマークは多くのスポーツマンに愛用されているから、アディダス社について多く語る必要はあるまい。

 日産24万足のスポーツシューズをはじめ、ジャージー、ショーツ、ストッキング、バッグその他もろもろの用具を世界20カ国で生産し150カ国に輸出している大メーカーだ。

 スポーツ新聞の編集者として、また地方のサッカー協会の役員として、わたしはスポーツ用具関係の人たちには、いつも親しくさせてもらっているが、もともと戦中に、皮製品が統制となって入手に苦労し、自分でボールを修繕しながら練習をしたぐらいだから、用具については興味(というよりウラミかな)も強い。

 それに、アディダスの輸入元である兼松江商のいまの社長・松浦巌氏(東京商大・現一橋大出)は大学は違うが、中学(神戸一中)は、わたしの二年先輩。兄(賀川太郎)が主将で松浦さんが副主将という間柄。そんなところから、74年ワールドカップのときに、アディダス社を訪れ、工場の作業工程や、クツの博物館を見せてもらった。

 当時は日産8万足で、いまの三分の一だが、その時の強い印象──技術にかける執念やサッカーの普及をめざす企業努力が忘れられず、こんども、訪問を申し込んでおいた。

 フランクフルトを朝9時35分のLH880便でニュルンベルクは10時25分着。迎えの車が来ていて20分足らずで本社につく。広報担当のハイジ・グラフ女史が、その日のスケジュールを説明してくれる。

 まず女史のブリーフィング、そして昼食を広報部長のクラウス・ミュラー氏といっしょにしながら、その間に部長に質問してほしい。部長はあとさきに会議があるので、ランチタイムにしか会えないが、私の帰りの飛行機の時間まで彼女は案内し、取材に協力するのこと。

 ワールドカップやワールドユース、そして今度のEUROPA80、もちろんモスクワ・オリンピックもそうだ。

 スポーツのビッグイベントにオフィシャル・サプライヤーとしていつもバックアップするアディダスは、いい選手に自社製品をはいてもらうことでPRになるわけだが、単に広告効果をねらうだけでなく、エベントを盛りたてるための努力も怠らない。ミュラー氏によると、

 こんどのヨーロッパ選手権でも、去る4月29日に各国代表を集めてシンポジウムを開いた。スペインのアセンシ、イタリアのベルージ、西ドイツのディーツ、イングランドのミック・ミルズ、ベルギーのジュリアン・コールス、ギリシャのパナゴリアス、オランダのファン・ハネヘム、それに西ドイツのルムメンニゲなどのプレーヤーにスペインのクバラ監督、さらに、UEFAのバンゲルテル事務局長、ローテンビュッヒャー同広報担当も出席し、69人の各国記者も集まった。

 10人のプロの予想では、優勝をイタリアと見たもの4人、イングランド3人、西ドイツ3人で、ほとんどが、この3カ国の上位と読んだ。

 ベルギーのコールスは、イングランド、西ドイツ、オランダ、ベルギーを上位4チームにあげ、イングランドのミルズが、イングランド、チェコ、西ドイツ、イタリアと並べたのが面白かった──と。

 このシンポジウムは、多くの新聞に紹介され、大会を盛りあげる役割を果たしているようだが、こうした会合をするために、アディダス・スポーツ・ホテルを持っているのも、この社の戦略が、基礎から積み上げられていることを示している。

 もちろん、ワールドカップやワールドユースのように、ゴールデン・シューズ(大会最多得点者)、ゴールデン・ボール(最優秀選手)の表彰もする。

 こんどは優秀選手の投票をしてくれた記者にアディダス・スポーツ用品のプレゼントもするので、ミスターKAGAWAもぜひ応募してほしいと。

 オリンピック・ボイコット問題や、ユニホームのデザインなどにも話が広がるのを、彼はていねいにドイツ語で答え(英語も上手なのだが、慎重を期して)それをグラフ女史が英訳する。

 それも、靴底の製作など技術面となると、技術者をあとで呼んで説明させるという念の入れ方だ。

 オリンピックについては私見だとことわりをつけて、こんな話も出た。「政治的な中立地帯にオリンピックゾーンを作る。そこに設ける競技施設や運営の費用を、各国の富に応じて分担し、提供すればどうか」・・・スポーツの国連的発想というべきか。

 ガストフロイントリヒカイト(客をもてなす心)という言葉がドイツにあるが、この会社のスタッフのそれには頭がさがる。

 そのミュラー氏、何度もイタリアへいっている彼がいう。

 イタリアでは、仕事が段取りどおりに行かぬこともままある。あなたのところへの取材許可が遅れたのも、そのひとつだろう。

 しかし、そうであってもわたくしはイタリアでの生活は好きです。あそこは、何というか、ホッとしてくつろげるところです。

 あなたも、じゅうぶんイタリアをエンジョイされることを祈ります。

 そうそう、イタリア人はのんびりといっても、それで彼らのサッカーを推しはかることはできません。そんなことと彼らのサッカーとは全く別物です。

 彼らとのフランクなミーティングをつづけながら、わたしは、あのアルゼンチンでのイタリア代表チームの一糸乱れぬ守備線を思い、リバープレートに響いた「イーターリア」のコールを反すうするのだった。

<サッカーマガジン 80年9月25日号>

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