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ムッソリーニとG・メアッツァ

 ティレニア海を飛ぶ

 ローマからミラノまでの1時間の飛行は好天のおかげで、中部イタリアの西海岸の眺めを充分楽しんだ。ティレニア海の──これがメディタレイニアン・ブルー(地中海の青さ)というのか──美しさもさることながら、中部イタリアの山地の多いのに、「イタリアは日本によく似た地形で、資源も少ない」という話を思い出す。地図の上の書き込みには、「1980年6月12日13時10分ローマを離陸、13時30分エルバ島上空、13時38分ピサを右に通過、アルピ・アプアネ連山がけわしい」とある。

 6月10日にフランクフルトからローマへ飛んだときは、ずっと雲上飛行だったから、この日が、はじめてのイタリア島観だった。

 ジェノア市を左にみて、内陸部へはいり、ポー河をこえたのが13時50分、それまでの景観とはまったく違うロンバルジアの広い豊かな緑の平野を見ると、ローマとはまた異なったミラノの歴史を思い起こすことになる。


 ホテル・カブールと宰相カブール

 ミラノでわたしが泊ったホテル・カブール(CABOUR)は、ファテベンフラテリ通りに面し、カブール広場(ピアッツァ)のすぐそば。いわゆる旧市内で、有名なドゥオーモ(大聖堂)やスカラ座、スフォルサ城なども2キロ以内にある。

 1861年にトリノのサボイ王家がイタリアを統一したとき国王ビットリオ・エマニエル二世を助けた宰相がカブール。ミラノの歴史は、まずホテルの由来でわたしを迎える。

 紀元前六〜四世紀からあった集落が、やがて古代ローマの勢力下にはいり、のちに西ローマ帝国の首都となる。くだって自由コミューンとして神聖ローマ帝国と戦い、ついでミラノ公国として近隣ににらみをきかし、かつダビンチなどのルネッサンス文化の花の咲いた時代。十九世紀にまたナポレオンの占領、そしてエマニエル二世・・・。それに第二次大戦にイタリアを巻きこんだムッソリーニもこの町に縁が深い。コモ湖畔でパルチザンに殺された彼の死体はホテルからそう遠くもないロレート広場で吊された。そんな年月の跡のひとつひとつを訪れるには、2泊の旅はいささか忙しすぎるが・・・・・・。


 サン・シロ競馬場

 市内のプレスセンターは下町にある「セデ・デル・トトカルチョ」つまりトトカルチョの本社ビルの1階と地下を借用している。ここからサン・シロにあるスタジアムへ。

 この日のイタリア対スペインの試合は20時30分開始だが、例によってスタジアムのテレビで他の会場、つまりトリノでのイングランド対ベルギーを見るため17時30分につく。市の西北にあるスタジアム一帯は、競馬場や体育館のある大スポーツセンター、競馬、競駕のレース場、調教馬場などがあって、地図でみるメトロの停車場も「ロット」(競馬場)となっている。

 サッカー場はむかしはスタディオ(スタジアム)・サン・シーロといっていたのを、最近なくなったかつての名選手の名を冠して、こんど、スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァと呼びかえている。


 花形FWメアッツァ

 ジュゼッペ・メアッツァは1910年ミラノ生まれ、インター・ミラノで活躍したFWで、W型フォーメーション華やかなときの右インサイド。17歳でインターにはいった初シーズンに12得点をあげ、1938年までの11年間のリーグで218点。3度リーグ得点王になっている。1930年に20歳でイタリア代表となり、以来9年間代表チーム、34年、38年のワールドカップに出場、38年は主将を務めた。

 そのころのイタリアはムッソリーニ全盛の時代で“ドウチェ(統領=ムッソリーニの尊称)”はイタリアに新しい息吹をふきこむためにスポーツを推奨していた。もちろんイタリア人の例にもれず、彼もサッカー好きで、庭に子息のためのゴールもたてていたという。

 1931年のイタリア対スコットランド(3-0のイタリアの勝ち)を取材した英人記者イバン・シェイプは、イタリアが得点する度に、スタンドから“ドウチェ”の大歓声があがるのを聞いたと書いている。

 イタリアで開催された34年のワールドカップに、国民とファシスト政府の期待がかかったのはいうまでもない。▼対米国(7-1)▼対スペイン(1-1)再試合(1-0)▼対オーストリア(1-0)▼対チェコスロバキア・決勝(2-1)、と勝ち抜いたイタリア代表にとって、苦しかったのは、フィレンツェでのスペインとの再試合と、その2日後のミラノでの準決勝だった。スペインには当時ヨーロッパで有名な名ゴールキーパー、サモラがいて、なかなか点を取れなかった。再試合も同じ経過だったがメアッツァが1点を奪った。

 1938年、フランスでのワールドカップは、イタリアは前回よりすぐれたチームに成長していた。その中心がメアッツァだったが、前回のメンバーは彼のほかに1人だけ、あとは全員、若い新しい顔ぶれに代わっていた。なかに1936年ベルリン五輪優勝のFBラインもはいっていた。

 ヒットラーのドイツがオリンピックに威信をかけたとき、ムッソリーニがプロ・サッカーの優勝を望んだのは、なんとなく2人の性格を示すようで、面白い・・・・・・などと考えているうち、「アテンツィオーネ」(アテンション)とスペイン、イタリアのメンバーがアナウンスされる。テノールのよくとおる声はここのスタジアムの音響効果のよさを加えて、かん声に負けることなく6万人の耳に届く。

 しかし、そのイタリアの顔ぶれは78年とほとんど変わることはない。そして、カウジオ、ベテガ、グラチアーニの3人のFWはスペインの名GKアルコナーダの守りを崩せず「スカラ・デル・カルチョ」(サッカーのスカラ座)とミラノ人が誇る大スタジアムにイーターリアの大声援がむなしくひびくのだった。

<サッカーマガジン 80年10月10日号>

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