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釜本に影響を与えた吉村の胸トラップ

 すでに日本でもサッカーのクツは、古い時代のブーツ型から、浅いシューズ型に変わり、先端部も柔らかくなっていた。ネルソン吉村大志郎のクツは底も薄く、二つ折りにしてポケットに入れられるほど柔らかかった。彼の胸のトラッピングは、胸を突きだし一度弾ませる、その頃はドイツ流と称したそれではなく、胸をすべらせて下へ落とすやり方だった。
 彼よりも2ヶ月早くヤンマーに入り、すでに日本代表の実績のあった釜本が、ネルソンの胸のトラッピングからヒントを得て、釜本独自のやり方を身につけた。メキシコ五輪でも再三にわたる胸のトラッピングからのシュートは、ひとつの芸術的なシュートの型となって、各国の専門家の称賛を浴びた。これは釜本の努力があったにしても、吉村の来日が契機となったものなのだ。

 吉村のキープ力とパスの能力は、釜本の成長とともにヤンマーの戦力となり、これに力を得たチームは、69年に黒人のカルロス・エステベスを、71年にはジョージ小林を加えた。
 カルロスは最終的には左DFに収まり、技術は決して多彩ではなかったが、相手陣内深く侵入して右足のキックでゴールマウスへハイクロスを送ることはできた。ドリブルのさいのフェイントも種類は少ないが、ここというタイミングに、ここという場所で、そのテクニックを駆使して、チームの攻撃に貢献することができたし、守りの面でも危険地帯を見分けることができた(当時の日本リーグレベルで)。
 吉村と同じ日系の小林は、骨太の身体つきで守りが強く、攻めに出たときはやはり角度のあるクロスを出すことができた。

 これら3人のブラジル人は、のちにやってくるオスカー(日産)やレナト(横浜マリノス、現日立)のような代表選手でもなく、またプロフェッショナルとしての華やかな実績もなかった。しかし、来日してからの練習で上達するとともに、ブラジルで身につけたボールテクニックと彼らの個性が、釜本とともにこのチームを日本のトップに押し上げ、1968年から76年までの9シーズンに、
 リーグ優勝3回(71、74年)、2位2回(68、72年)、3位1回(73年)。
 天皇杯優勝3回(68、70、74年)、ランナーズアップ3回(71、72、76年)の成績を残した。
 吉村はのちに吉村大志郎となって日本国籍を取得し、現在もヤンマーの監督をしている。カルロスは72年まで、小林は76年まで日本でプレーして帰国した。
 彼らはまた、その頃の日本のサッカーに最も欠けていた個人のキープ力を改めて示唆した。吉村もカルロスも小林も、とくにハイレベルとはいえないまでも、1対1では優位にたてた。彼らに刺激されて、今村、堀井、松村、水口(利)、阿部たちが進歩したことで、チームはリーグのなかにひとつのスタイルを築いた。

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