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ウエーターの優雅なナイフさばきとアントニョーニのプレー

 名CH“がんさん”の急逝

 “がんさん”の愛称で親しまれ、尊敬されていた兼松江商の松浦巌(まつうら・いわお)社長(59)が急逝された。

 名門商社に戦後派入社の社長が誕生したと経済界の話題になったのが二年前だった。あの面倒見のよい、おおらかな“がんさん”はきっと、りっぱな社長さんだろうナと、だれもが思い、活躍の続くことを期待したのだったが・・・・・・。

 神戸一中で、わたしより二年上級、兄・賀川太郎がキャプテンのときの副キャプテンだった。名の通り巌の如くがっちりした体つきで、「がん」のニックネームそのもの。学校の勉強もよくできたし、CH・ストッパーとして確実で、またキックも正確、ファイト旺盛な試合ぶりとは別に、下級生にはやさしいので、後輩に慕われていた。

 昭和13年の全国中学校選手権大会(いまの高校選手権)で神戸一中がそのころとしては新しい3FB(それまでは2FBのロービングセンターハーフ)制を採用し、県予選から全国大会を通じて無失点で優勝したが、四年生(いまの高一の年齢)のがんさんは、その軸となるCHだった。五年生の時は神戸大会(戦後の国体に当たる)に優勝、東京商大(現一橋大)に進み、学徒出陣で兵役、復員して、また学校。昭和21年2月西宮球技場で行われた東西学生選抜対抗に、東軍のCHで出場した。わたしたちのいた西軍が2-1でリードして試合が終わろうとするとき、東軍の右のCKのチャンスに突進、がんさんが、後方から走り込み、西軍FBのヘディング・クリアのボールを、強烈な右のシュートで同点ゴールを決めたのだった。あのタンクのような突進、腰の安定した右のインステップキックを、そのとき右ウイングの位置から呆然と見ていたことを、はっきり思い出す。

 すぐれたディフェンダーで、ときに思い切った攻撃を仕掛ける積極的な「がんさん」には、これからのサッカー界は、いろいろと教えてもらえることも多かったハズなのに・・・。


 まるで指揮者のように

 さて、わたしの「イーターリア」も終わりに近づいた。

 6月21日、イタリアがナポリで三位決定戦をする日、わたしはローマのホテル・ボストンから、“終着駅”に近いホテル・メトロポールに移る。

 ホテル・メトロポールは、ボストンにくらべると建物や調度に“重さ”がないが、事務の手ぎわはよく、航空会社の乗務員が何組も出入りしている。

 その日の午後、プレスセンターのホテル・パルコ・ディ・プリンチピにゆき、レストランで昼食。イタリア料理ではなく、フランス料理で、私は舌ビラメのムニエル。さすがにヨーロッパでも魚を食べる地域だけに味も良かったが、何よりすばらしかったのは、ウエーターが骨をはずす手ぎわ。ヒラメの両側の骨をまず2本のナイフで、きれいにはずし、ついでにまん中の骨を取る。ナイフを持ちあげ、銀の盆にのった魚をさわりはじめた最初のタッチは、まるで指揮者がタクトを握って演奏を開始するときの厳粛さ、そして左右の小骨を、“さっさっさっ”と浮かしてゆくところは、軽快でリズミカル。最後に大きい骨をとって、しかも、形のくずれない身を、わたしの皿に移し替えたときは、同じテーブルのドイツ人M氏は思わず「ファンタスティック」とつぶやき、わたしもつられて「ビューティフル」とうなった。

 ヨーロッパではウエーターの格式ばった態度がいつも面白いが、イタリアでは、それに優雅さが加わる。こういう一級のホテルでなくても、バールのバーテンダーにもそれがある。トリノの駅前では、私は口ヒゲをはやした2枚目のバーテンダーが、コカ・コーラのセンをぬくのに、これもタクトの如く腕を振りあげ、しかし、ポンとはずれたセンが50センチほど離れたセン入れのカンに飛びこむのをみた。その得意ワザを見るため、1日に3回もコーラを飲みにいったものだ。

 こういうウエーターやバーテンダーの優雅をみると、わたしには、いつもイタリア選手の優雅なプレー、なかでもアントニョーニとダブってくる。


 一段上のアントニョーニ

 その夜のイタリアとチェコスロバキアの3位決定戦のテレビは、ナマとは違った面白味があった。しかし、やはりアントニョーニの抜けたイタリアは、中距離スルーパスの楽しみがなかった。この大会でのわたしの収穫は78年からアントニョーニが明らかに一段上にあがったことだった。彼が例の、前傾姿勢のドリブルから、相手の守備陣を見て、スクエアのクロスを出すか、スルーのクロスを出すかの判断とキックがすばらしかった。

 イングランド戦でもベルギー戦でも、きわだっていた。そしてベルギー戦は彼が負傷して退場しイタリアは望みを失ったのだった。

 PK戦で敗れて引きあげるイタリア勢の消沈した姿を画面でみながら「明日もまた舌ビラメを食べようかナ」と思うのだった。

<サッカーマガジン 80年1月>

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