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大理石のスタジアムでローマ、東京両五輪を想う

 釜本のバルセロナ行き

 釜本邦茂選手が12月14日夜の飛行機でヨーロッパへ飛んだ。スペインのバルセロナで開かれる国連児童救済基金(ユニセフ)募金の慈善試合FCバルセロナ対世界選抜に出場するために・・・。

 12月16日に行われるこのチャリティーマッチに「カマモト」を出場させたいという話は、半年前からのことだった。

 この連載のテーマでもある「80年ヨーロッパ選手権」でローマに滞在中、ブランコ・ベロバノビッチ記者から、日本の雑誌記者にユニセフの試合に日本からだれか選んでほしいといってきたのだった。

 ユーゴ人で、いま西ドイツのデュッセルドルフに住み、フリーの記者であるベロバノビッチについて、知ることは少ないが、79年にも、この種の試合がドルトムントで開催され、ベッケンバウアーやクライフが出場して425,000ドイツマルク(約5,400万円)の利益を上げユニセフに寄付したことは「FIFAニューズ」(80年6月号)で読んでいたから、「日本から選ぶならカマモト。ユニセフから日本協会へ書面による招待を出してもらえばいいだろう」とアドバイスしておいた。

 書面やテレックスのやり取りに、思いのほか時間がかかり、国際人の山岡浩二郎・ヤンマー総監督(神崎高級工機社長)を「やっぱり日本はファーイースト(極東)やねエ」と苦笑させたが、とにかく関係者の努力で、こうした催しに、日本からプレーヤーが参加できるようになったのは嬉しい。

 これも、あるいは、ファーイーストから、はるばる欧州選手権へ足を運んだ「我が内なるイーターリア」の余録かも知れない。

 さて、EUROPA80。欧州選手権の最終日、6月22日がやって来た。

 ファイナルゲームの前は、いつでも、なんとなく落ち着かない。試合への期待、ようやくなじみはじめたローマを去る未練。荷づくり、そして原稿の整理。日本人の旅行に付きまとうお土産品の調達・・・。

 メトロボール・ホテルに近いテルミニ(終着駅)まで散歩する。夏休みが始まったとみえて、英国から、アメリカからドイツからやって来たバックパッキングの若者たちが、半パンツから長いスネを出して時刻表に見入っていた。


 スタジオ・ディ・マルミ

 試合開始は午後8時30分だが、日の高いうちにスタジオ・オリンピコへゆく。すぐそばのスタジオ・ディ・マルミにもお別れをする。

 古代ギリシャのスタジアムに模し、美しい大理石(マルミ)を用いて造られたスタンドの最上段に、スポーツマンの彫像(これも大理石)が並び、スタンドとグラウンドとを取り囲む形になっている。その数は60。それぞれ、高さ4メートル、それが直径2メートル、高さ1.2メートルの台の上にのっている。1960年のローマ五輪の時にここはホッケー会場にあてられ、また陸上競技の選手たちのウォーミングアップの場ともなった、いわばサブ・グラウンドだが、背後のモンテ・マリオの丘の濃緑の木々をバックに、白い大理石のスポーツ像を見上げると、古代ローマにもどった気がしてくる。

 それほどの昔でなくても、ローマ五輪の開催された20年前は、わたしも、まだ35歳の第一線記者、日本サッカーも東京五輪を目指す準備に懸命だった。その東京五輪の際に、わたしは関東だけでなく、西日本でも、五輪サッカーのグループ・リーグを開催し、それによって地方振興(スタジアム建設も)を図る案を出した。外国なら至極当然のこのアイデアを組織委は「東京オリンピックは箱根は越えない」とニベもなく拒否したが、スタンレー・ラウスFIFA会長の力添えと川本泰三さん(現関西協会会長)の努力でFIFA公式試合として、準々決勝で敗れた4チームを集めて、関西で五・六位決定戦を行うことで形をつけた。

 おかげで新設の大阪・長居競技場は大いに賑わったわけだが、その五輪サッカー分散の発想も、もとはローマ大会の会場(フィレンツェ、ナポリなどローマから離れた都市でも行った)にヒントを得たのだった。

 サー・スタンレーの当時の日本サッカー振興についての洞察と、ことをまとめる手腕には敬服するとともに、同会長を補佐し尽力してくれたイタリア人のFIFA副会長、オトリノ・バラッシ氏の温顔もまた忘れられない。

 71年に74歳で亡くなったバラッシさんはFIFAの役員を約41年間務め、東京五輪の前はアマチュア委員長だった。

 大戦中に、イタリア国内でも貴金属を回収し戦争用物資調達にあてることになったとき、フランス人のアベル・ラフルール作、重さ9ポンド(約4キロ)の純金のジュール・リメ杯(イタリアが保持していた)にも目をつけられたが、バラッシさんがイタリア協会事務所から自宅へ持ち帰って隠したため接収をまぬがれたという。

 当時とすれば、それが、どれほど勇気のいったことか──。

 そのバラッシさんの家は、このオリンピック・センターの少し北側にあったはずだが・・・。

 63年にサー・スタンレーやグラナトキン(ソ連)副会長、ケーザー事務局長らとともに大阪の会場を事前視察したバラッシさんには、その時お目にかかった。あとでジュール・リメ杯のことを知り、あの、穏やかな紳士が、やはり、ことサッカーとなると・・・と感心したものだ。

 私の回想は、ドイツのサポーター軍団の喚声に、EUROPA80にひきもどされた。彼らは「ドイッチェランド」を高唱するまえにまず「イーターリア」と叫び、周囲のイタリア人の拍手を浴びた。そこにはバラッシさんが苦労してカップを隠した時代の暗い影は全くなかった。ローマの太陽はあくまで明るかった。

<サッカーマガジン 80年1月>

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