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セルジオ越後とフジタ

 1965年から70年までの、東洋工業(現サンフレッチェ広島)の時代というべきリーグ初期を経て、70年代中期まではこのヤンマーを軸に三菱と日立がリーグの優勝を分け合った。両チームには、海外からの選手移入はなかったが、1972年に2部から1部に昇格した藤和不動産(現フジタ)が、サンパウロの名門コリンチャンスにいたセルジオ越後を迎えて注目された。
 越後は、かの有名なリベリーノ(W杯3回出場)ともプレーしたことがあり、フェイントの多彩さ、中・長距離パスの正確さは、その実績を裏づけるものだった。彼が藤和不動産に在籍していた74年までに、チームはトップグループの域には達しなかったが、セイハン比嘉(73年から)、カルバリオ(74年から)などを加えて、次の飛躍への土台づくりとなった。
 セルジオ越後のプレーで印象に残るのは、74年のリーグ、大阪での対ヤンマー戦におけるミドルシュート。左斜め20メートルから右足で蹴ったのだが、膝から下のスイングをほんのわずか遅らせて、GK西片のタイミングを狂わせた。シュートのタイミングは、日本人は、より早くすることは推奨しても、遅らせるとか、「ずらせる」といった感覚を持つものは少ない。私は、その日の試合のメモに「久しぶりに日本にもシュートのタイミングをずらせる=遅らせる=プレーヤーが現れた」と記したものだった。
 このように、技術のしっかりしたセルジオ越後は、プレーヤーから退いたのち、76年から永大産業に技術顧問として加わり、その永大が77年に会社経営悪化のため、サッカーから撤退すると、コカ・コーラの「さわやかサッカー教室」のコーチとなって全国を巡回し、大きな成果を挙げることになる。
 セルジオ越後が去ったあとも、フジタは前述の比嘉(78年まで)、カルバリオに、北海道の札幌大学に留学していたマリーニョを加え、1977年、79年に日本リーグと天皇杯に優勝。カルバリオは77年(23得点)、78年(15得点)と2年連続得点王になった。フジタは81年にもリーグ3度目の優勝を果たす。W杯やオリンピックのアジア予選を突破できず、またアジアでのタイトルをかけた戦いに代表チームが負け続けたため、日本サッカーへのメディアの関心は薄く、試合のスタジアムは閑散とした時期だったが、フジタの成功によってサッカー関係者のブラジル指向はさらに強くなっていった。

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