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この目で見たい関西人のゴール

 70年代からワールドカップの取材に出かけるたびに、世界のスターストライカーが競うヒノキ舞台で、関西の生んだあの人、この選手が、もし出場していれば、どのような評価を受けるだろうか、と考えたものだ。
あの人とは、36年のベルリンオリンピックで、初登場の日本代表が優勝候補のスウェーデンに3-2で勝ったときの攻撃のリーダー、川本泰三(故人)。旧制市岡中学を経て、当時早大の学生だった22歳の彼は得意のドリブルで相手を悩ませ、正確なシュートで日本人のオリンピック初ゴールを決め、0-2からの逆転劇の口火を切った。
 このチームは2年後の第3回ワールドカップ・フランス大会にエントリーしたが、旧陸軍の中国での戦火拡大のため、参加取り消しの悲劇にあう。
 ベルリンの経験でプレーヤーとして大きく成長した川本は、のちに「シュートの名人」といわれるまでになり、独特の発想で後進たちに大きな影響を与えた。もし、38年大会でブラジルやイタリアのトッププロと接していれば、何を自分に取り入れただろうか。
 シュートの名人から30年後、関西からオリンピックの得点王が現れる。釜本邦茂(現・参院議員)。メキシコ大会で日本の9ゴールのうち7ゴール(6試合)を決め銅メダル獲得の大きな力となった。京都の山城高校、早大を経て、日本サッカーリーグのヤンマーのFW。182センチの恵まれた体格で、シュート、ヘディングのうまさは抜群だった。
 この銅メダルチームもまた、70年のワールドカップ出場を目指したが、主軸の釜本が肝臓障害で欠場しアジア予選で敗退し、最盛期のその力を世界のトッププロの中で問うチャンスを失った。
 先輩たちの夢は、大阪の天王寺高校出身の岡田武史監督のさい配によって、98年フランス大会への出場で果たされたが、まだ関西人によるワールドカップのゴールは記録されていない。

(朝日新聞 2001年5月12日)

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