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ヨナシロと読売クラブとラモス

 70年代の前半、例えば1974年の日本リーグを見ると、ヤンマー、藤和の両チーム以外にもブラジル選手のいるチームがあった。1973年に2部から1部へ上がった永大に、ジャイロ・マトス、ジャイール・ノバイス、アントニオ・ペレという3人のブラジル選手がいた。また、2部で優勝した読売クラブにはジョージ与那城がいた。
 71年にサッカーから撤退した、名古屋相銀の主力プレーヤーを受け入れて山口県リーグで旗揚げした永大は、72年に全日本社会人大会に優勝して日本リーグ2部に入り、73年の2部リーグで優勝。74年からは1部で戦い、その時期から一気に3人のブラジル人を登場させたが、73年に会社の都合でサッカー部の活動は停止した。企業のチームは、「会社あってのもの」という宿命を背負っているが、永大は急速な強化を図る近道としてブラジル選手を加えたわけではない。セルジオ越後を招いて、山口県の自社グラウンドを中心に、ブラジル流サッカーを根づかせようとの構想のもとに努力をしていただけに、関係者には誠に気の毒な挫折だった。
 読売クラブは永大のような急上昇ではなく、1969年に発足した東京リーグ、関東リーグを経て、日本リーグの2部がスタートした72年から2部入り、6年を経て1978年から1部に上がった。日系ブラジル人のヨナシロ(与那城)は、73年には15得点を挙げ得点ランキング2位となり、チームを3位に押し上げる原動力となった。
 翌74年の2部優勝(11勝4分わけ3敗。得点46、失点20)では、13得点(得点王)を記録している。この時の読売クラブは入替戦でトヨタ(1部)に2敗。しかし77年にも2部で優勝、入替戦で再びトヨタと対戦し2勝、念願の1部入りを果たした。このシーズンには、与那城の他に永大からジャイロ、サンパウロからは、与那城の学校の後輩でもあるラモスが加わった。入替戦では、与那城が2点、ジャイロが1点(チーム4得点)を決めている。
 79年の日本リーグでは、フジタが優勝、読売クラブが2位と、技術のあるチーム、ブラジル流の攻撃を重視するチームが上位を占めた。それとともに、企業のバックを受けながらも、「クラブ」というこれまでの日本のスポーツにない形をとった読売クラブが、いよいよサッカー界の本流に顔を出したという点で、歴史に残る年だったといえる。
 個人的にもラモスが得点王(15点)になり、アシスト1位にはラモス(7)、与那城(7)、釜本(7)が並んで、日本のサッカー界に、釜本に代わる“大きな個性”としてラモスが浮かび上がってきた。

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