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昭和の大先達・竹腰重丸(上)

中国はかつての目標

 遙か昔の前漢の時代に、蹴鞠が軍隊の訓練用の球技であったという中国は、近代になってイングランドでルール統一の計られたフットボールがイギリス人船員や宣教師によってもたらされると、いち早く興味を示しました。英語のフットボールを日本では蹴球と訳し、中国では字の通り「足=フット、球=ボール」としました。日本では平安朝では貴族の遊びであった蹴鞠が、江戸時代には庶民にも広まっていたため、その記憶から、明治の初めに紹介されたフットボールを「外人さんの蹴鞠」などと言ったりしていて、その「蹴」の字を使った、とは新田純興さん(故人、大正11年東大卒)の説ですが、中国の「足球」は、そのものズバリの適訳というところでしょう。
 「このくに と サッカー」の今回のテーマは、その中国の足球に負け続けた日本のレベル向上を図り、昭和5(1930年)の極東大会でついに中国に追いつくチームをつくった中心――竹腰重丸――昭和期の日本サッカーの技術をリードした大先達です。


大正期・サッカーとインターハイ

 竹腰重丸の名から、仲間達は「ノコ」、後輩達は「ノコさん」と呼んだが、その74年の生涯はサッカー一筋、いやサッカーそのものであった。学生時代にボールを蹴ること、足や頭で扱うことに夢中になり、チームをつくり、相手に勝つことに熱中し、試合のために、練習のために学部を変わり、職を移した。若いスポーツ人にはよく見られることだが、この人は人生の後半になってもすべてサッカーが優先、東大の勤めも昇格、昇給より、海外のサッカー視察に出やすい職場を選び、教授となったのは34年在職の最後の年だった。
 明治39年(1906年)2月15日、大分県臼杵市に生まれたノコさんが、サッカーに出会うのは13歳、中学2年生のとき。大正8年(1919年)に転校した大連一中で服部校長のサッカー奨励策に出会う。
 体操の時間に、ボールを手で止めて先生にしかられたほどサッカーに無知だったノコ少年だが、すぐに面白くなり、3年生のときにはチームをつくって外国人と試合するまでになる。それまで剣道をやっていて、細いがバネのある体だったのと、負けず嫌いが上達を早めたらしい。
 初め、外国人の蹴るライナー性のボールに驚いたが、自分で考え練習した。そのサッカーへの傾倒は大正11年(1922年)4月、山口高等学校に入って、さらに強まる。
 日本にサッカーが紹介されたのは明治6年(1873年)、東京・築地の海軍兵学寮で、英国海軍のダグラス少佐とその部下がプレーしたのが最初ということになっているが、実際に浸透が進むのは同29年(1896年)、東京高等師範(現・筑波大学)に運動会(体育会)組織が生まれ、その中にフットボール部が誕生し、この学校でサッカーを覚えたものが各地の学校に赴任してからのこと。
 ノコさんが生まれた明治39年から6年後の45年(1912年)には、ストックホルムのオリンピック大会に陸上競技の2選手が初参加してスポーツ熱が高まり、サッカーも大正6年(1917年)に東京・芝浦で行われた第3回極東大会に初めて参加、2戦2敗だったが、これが刺激となって、翌7年には東京、名古屋、大阪の各地でそれぞれ地域のサッカー大会が開催された。
 こうした地方の活発な動きから、東京では大正10年(1921年)に大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)が設立され、日本選手権(現・天皇杯)も始まった。
 山口高等学校にとってのビッグニュースは大正12年(1923年)からの全国高校大会(旧制高校時代のインターハイ)――。これは当時、東大(東京帝国大)の学生であった野津謙(後に第4代日本サッカー協会会長)の提唱で、東大のサッカーを強くするために、東大(を初めとする各帝国大学)を目指す高等学校サッカーのレベルアップを狙って行なわれていたもの。
 その狙いは成功し、昭和初期の東大サッカーの黄金時代につながるのだが――。


サッカーを考える――チョー・ディン

 山口高等学校は、大正12年1月の第1回全国大会では決勝で早稲田高等学院(早高)に0−2で敗れ、第2回大会は2回戦でやはり早高に0−1、大正14年(1925年)の第3回大会では決勝に進みながら、松山高校に2−3で惜敗した。
 この大会で評判になったのは第1、2回の早高の優勝――部の創立(大正10年)後、日の浅い早高が急速に上達したのは、留学中のビルマ(現・ミャンマー)人、チョー・ディンの技術指導によることが明らかになった。その指導力が評価され、各学校からの指導の申し込みが殺到した。折から、大正12年9月に起こった関東大震災で、チョー・ディンが勉強中であった蔵前の東京高等工業学校の校舎が倒壊して、授業ができなくなったこともあって、彼は全国を巡回コーチし、自らの著書「HOW TO PLAY ASSOCIATION FOOTBALL」を基に、基本技術や戦術を説き、自ら模範を示した。
 山口高等学校もこの本を買い、チョー・ディンに山口に来てもらって指導を受けた。東京高等工業学校に留学していただけに、ボールを足で蹴るには、腰を軸にした円運動であるから、どうで、どう蹴れば、どう飛ぶのか――というふうに物理的に説明した。それまでの指導のほとんどは、先輩がただ怒鳴るだけだったのに比べ、チョー・ディンの方は理論的だった。
 感服したノコさんは2年生のとき、東京へ出ていき、彼がコーチして歩くのについて回り、基礎技術の理論的な解析、一番いいフォームを考えて、それに近づくよう考えて練習する、サッカーを「考える」ことの手ほどきを受け、「チームプレーではボールキープが大切なこと」、「ショートパスでつなげば、ロングパスでつなぐより正確に組み立てができること」、「ゲームのいろいろな場面を分析して、それを逆に組み立てるといったこと」も習った。


東大、6連覇の黄金期

 チョー・ディンによってサッカーを「考える」目を開いたノコさんは、ますますサッカーにのめり込んでいく。
 大正14年4月、山口高等学校から東京帝国大学医学部薬学科に入学した。
 この年の4月に東京で行なわれた第7回極東大会代表決定戦で関西代表の大阪サッカーが、関東の早大、中国代表・黒猫クラブを破って優勝して、代表権を獲得したが、このチームにノコさんは補強選手として参加した。ときに19歳。
 初めての日本代表、初めての海外試合は5月、フィリピン・マニラでの対中華民国(現・中国)戦、0−2の敗戦――実力の違いを味わった。
 海外遠征に出たのはよいが、薬学科は実験が多くて、欠席した分が追いつかない。夏休みを半分返上して実験をしても間に合わない。
 秋には関東大学リーグがあって、その練習もある――結局、在任教授に「やめます」と申し出て、翌年から農業経済に移ることにした。
 練習に時間を割けるようになったノコさんは、大正13年(1924年)から始まった関東大学リーグの3年目、同15年(1926年)に東大を初優勝に導く。インターハイの仲間の合流もあって、東大の黄金期と日本サッカーの上昇期が始まった。


竹腰重丸(たけのこし しげまる)
 明治39年(1906年)2月15日大分県生まれ。昭和55年(1980年)10月6日没。
 昭和4年(1929年)、東京大学卒。大正末期から昭和初期にかけて極東大会の日本代表選手(昭和5年、優勝チーム主将)昭和11年(1936年)ベルリン・オリンピック代表コーチ。昭和4年から日本サッカー協会理事、昭和23年(1948年)〜同49年(1974年)同協会理事長。この間にも、国際学生競技大会選手団団長(昭和28年)メルボルン・オリンピック監督(昭和31年)など。日本サッカー協会の法人化を実現し(昭和49年)、それを期に理事長を辞任。亡くなるまで顧問。
 東大では学生主事、農学部事務部長を歴任。教養学部講師、教授。昭和42年(1967年)に藍綬褒章を受章。


★SOCCER COLUMN

明治期の名古屋
 愛知県のサッカーは、明治39年(1906年)に東京高等師範を卒業した堀桑吉が愛知第一師範に就職し、三浦渡世平校長の賛同を得て同校に蹴球部を組織したのが始まり。堀は名古屋の明倫中学校、陸軍幼年学校、岐阜師範、岡崎師範などにも指導に出かけ、草創期のサッカー普及に力を尽くした功労者。教職の最終は瑞穂短大で、96歳で亡くなるまで名誉教授だった。
 愛知第一師範より少し遅れて第八高等学校でもウイルデン・ハートという外国人先生の指導で、明治43年(1910年)にサッカーが導入された。東大サッカー部史「闘魂」3号の年表を見ると、大正7年(1918年)、第1回関東蹴球大会の招待試合(模範試合)に八高OBで編成された東大チームが参加とある。これが東大サッカーのスタートのようだから、名古屋の勢力もなかなかのものだったと言える。

知多のサッカー和尚
 知多半島の東浦町にある東光寺の住職・鈴木良韶さん(63)は人も知る「サッカー和尚」。東京オリンピックの2年前、日本代表を応援するため結成された「日本サッカー狂会」の創立以来のメンバー。応援や観戦だけでなく、自らも子供達とボールを蹴る。「東光寺FC」を昭和45年(1970年)から始め、30年間活動を続けている。現在、小学生のメンバーは60人、中学生以下が40人、長男の良三さん(31)も審判の資格を取り、指導にあたっているから父子2代のサッカー寺――。
 知多半島は明治41年(1908年)東京高等師範卒業の新帯国太郎(故人)というサッカーの先人を生んだ地。新帯さんは在学中に英国在住の友人から送られたサッカーの書物を翻訳し、テキストを作り、指導に役立てたとの話が残っている。

70年前の愛知のチーム
 昭和6年(1931年)10月に発行された大日本蹴球協会の機関誌「蹴球」(現・日本協会発行、JFA news)第1号によると、そのころの東海蹴球協会に加盟するクラブは32、県別では愛知20、静岡6、岐阜6、長野、三重は0となっている。
 愛知県の所属は、第1種は名古屋蹴球団、芳野クラブ、コメットクラブ、刈中クラブ、第2種では第八高等学校、名古屋高等工業、名古屋高等商業、名古屋医科大学、第3種は第一師範、明倫中、東邦商、熱田中、刈谷中、豊橋市立商業、名古屋市立商業、津島中、小牧中、豊橋中、愛知県工業などであった。


(月刊グラン2000年5月号 No.74)

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