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昭和の大先達・竹腰重丸(下)

サッカーを除外した1932年ロス五輪

「中華民国(現・中国)に追い付く」を目標に、大正10年(1921年)以来、極東選手権のタイトルを求めてきた日本協会は、昭和5年(1930年)の第9回大会で「勝ちはしなかったが、並ぶところまできた」と喜び合った。
 次の目標はオリンピック。しかし昭和7年(1932年)のロサンゼルス大会でサッカーは開催されないことになった。理由はIOC(国際オリンピック委員会)がFIFA(国際サッカー連盟)のアマチュアについての定義を認めなかったためである。
 大衆化の進んだサッカーでは、試合のために会社などの仕事を休んで、その分の収入が減少したときには、それぞれのクラブや協会がその失った分の収入を補償する「ブロークンタイム・ペイメント(休業補償)」を「アマチュア」も受け取ることができる――とFIFAは認めていた。ロサンゼルス・オリンピックに参加するためには(当時はヨーロッパからアメリカへは船旅だった)大会期間とあわせて1ヶ月は休むことになり、当然、その休業補償が必要となるのだが、IOCはこうしたFIFAのアマチュア規定を認めず、昭和6年(1931年)4月25、26日の会議で、ロス大会からサッカーを除外することを決めたのだった。
 現在の常識からすれば、というより、プロ大歓迎のIOCの今の態度から見ると、休業補償という「つましい」制度をアマチュアでないと、はねつけるのは不思議にも見えるが、スポーツはあくまで「余暇にする遊び」と考えていた一部のアマチュア主義者には許せないことになっていた。
 もっとも大正13年(1924年)のパリ・オリンピックのときには、FIFAの内部でも、この休業補償に反対して、イングランドなど英国系4協会が不参加となったこともあった。そして、このことから、昭和5年の第1回ワールドカップ・サッカー、つまり、参加資格に制限のない「真の世界一」を決める大会がスタートしたのだが、このこともIOCにとって、好意を持って迎えられるはずはなかった。
 昭和6年10月に発行された大日本蹴球協会機関誌第1号に、ロス大会のサッカー除外について、野津謙理事(後の第4代会長)の記述があるが、本来なら「さあ、ロサンゼルスへ」とうたいたい日本協会にとって、誠に不本意だった。
 竹腰重丸、ノコさんはこの無念をこう言い表している。「酒を飲むようになったのは、ロサンゼルスに行けないと分かってからです」
 禁酒、禁煙。サッカーに害があるとされることは一切せず、映画館にも足を踏み入れたことがないというノコさんは、晩年、酒好きで知られるようになったのだが…。


後輩とともにベルリンの逆転劇

 ロスは挫折してもノコさんのサッカーへの傾倒は止まることがない。卒業した仲間、後輩が社会へ散って行くのを見ながら、自らは大学にとどまり、昭和8年(1933年)10月、「体育に関する事項を嘱託し1ヶ月金85円給与(常勤)」の発令から33年間、東大で体育指導に当たりながら、サッカーを続ける。いや、サッカーを続けながら体育指導に当たったというべきか――。
 その成果は昭和11年(1936年)のベルリン・オリンピックに現れる。8月4日、ベルリンのゲスントブルンネンにあるヘルタ・プラッツ競技場(ヘルタ・ベルリン・クラブの当時のホーム)で行われた3−2の逆転劇は、相手のスウェーデンが優勝候補と見られていた(2週間前にホームのストックホルムでドイツ代表を3−1で破っている)。それだけに、極東のしかも初参加の日本が勝ったと、ヨーロッパで大評判になった。次の準々決勝(8月7日)ではイタリア(大会優勝チーム)に8−0で大敗したこともあって、このスウェーデン戦は「奇跡的」というところが強調されすぎた感はあるけれど、日本代表の技術水準やチーム力は、現地でも、あるいは敗れた当事国スウェーデンでも高く評価されている。
 そのチームを構成したのは、昭和5年の第9回極東大会のときに中学(旧制)の4、5年生だった選手が多く、16選手のうち、昭和5年組はFBの竹内梯三(明治41年生まれ)ただ一人。大正2、3、4年生まれの、いわゆる大正シングル世代がほとんどだった。
 彼らの多くは中学生活の5年間、大学予科あるいは高等学校の3年間、さらに大学での3年間をみっちりサッカーに向き合う環境があり、なかでも予科を併設していた早稲田や慶応といった私立大学のサッカー部は、一貫したチームづくり、選手育成を6年間に渡って行なった(力のあるプレーヤーは予科、1、2年から大学リーグに出場していた)。そして、それらの指導にはノコさんと同世代の大学卒業生――自らの技術をチョー・ディンの教えや、自らの工夫によって開発した人たち――が当たったことも、またチームと個人のレベルアップの力となっていた。
 そうした大学生のプレーを注視し、辛口の批評を協会機関誌や新聞に発表して啓蒙したのもノコさんであり、日本代表のトレーニングを指導したのも竹腰重丸だった。
 このベルリン代表の編成の伏線には昭和9年(1934年)のマニラでの極東大会があった。本来なら前回の東京を上回る実力チームをつくるはずが、関東、関西の有力大学選手を集めながらまとまりを欠いたこと、また、当時、日本が中国を侵略して東北部に満州国を建設した国策に沿って、この大会にも満州国の参加を後押しする必要もあり、体協理事のノコさん自身、サッカーに没頭できなかったこともあった。オランダ領東インド(現・インドネシア)や中華民国に敗れた苦い経験から、ベルリンのメンバーは関東大学リーグで圧倒的に強かった早稲田から10人、東大2、東大卒1、高等師範と慶応から各1、さらに韓国(当時日本領)の晋成専門学校出身1が選ばれた。
 このベルリンでの試合については、別の項で詳しく紹介することにしたいが、ベルリン大会が終わった後もヨーロッパに滞在し、帰国したのは11月29日だったことも書き加えておく。大学から出された出張命令によると「大会終了後、ドイツ国の農業政策、農業経済事情並びに、体育に関する事項を調査し、スイス、英、仏、オーストリア、イタリアを経て帰国」することになっていた。
 その間にイングランドのプロリーグをはじめ、本場のプレーを視察したのはいうまでもない。


戦後の復興の苦難と成功

 ベルリン・オリンピックの年に起こった2・26事件で、「これではベルリンへ行けなくなるのでは」とノコさんは心配した。このときは杞憂に終わったが、以来、日本の軍国主義の強まりは、中国への戦火となり、昭和15年(1940年)に予定されていた東京オリンピックの開催を返上し、ノコさんの前の広く、高く、大きい、世界サッカーへの道は閉ざされてしまう。
 やがて太平洋戦争とそれに続く敗戦、戦時中は海軍の司令官としてセレベス島にいたことのあるノコさんは、昭和21年(1946年)に復員すると、サッカーの再建に取りかかる。ときに40歳。この年10月の第1回国民体育大会の決勝に、東大OBで出場したのが選手、竹腰のラストの舞台――後進の指導に当たるノコさんには戦時中のブランクによる技術伝播の断層、戦後の経済困難によるスポーツ環境の劣化が大きな壁となって立ちふさがった。
 中学校の正課体育へのサッカーの取り入れ、デットマル・クラマーに技術指導を委ね、東京オリンピックの監督、コーチには30歳代の若い長沼、岡野を起用し、そのままメキシコへ向かわせる。20歳代の自分たちが、昭和5年から11年へ歩んだのに倣ったのだろうが、その成功がようやく日本サッカーに活力を生むことになる。
 これだけの仕事をこなすためには勤め先、東大の理解も必要だった。昭和28年(1953年)の国際学生スポーツ大会参加のときにも、矢内原総長の計らいで大学の庶務課長から教養学部の体育講師にと仕事を代えてもらった。
 名誉や給与のアップよりも、ただ日本サッカーのためにと思うこの人を、矢内原総長は「サッカー漬けの人だね」と温かく見ていたのだった。


新郎紹介が40分間のサッカー談義

 昭和38年(1963年)わが兄・太郎(昭和20年代の日本代表)の結婚式で竹腰重丸夫妻が仲人役を務めたとき、披露宴での新郎紹介の挨拶が、40分に及ぶ異例のサッカー・スピーチとなった。初めての媒酌人役に、いささか硬かったノコさんの挨拶が、やがて新郎のサッカー経歴に触れるころから滑らかになり、彼の得意としたパスプレーが、サッカー芸術論となり、次から次へと展開するのだった。サッカーを知らぬ新婦側はどうだったか別として、新郎側のサッカー仲間達は「ノコさんの、こんな上手なスピーチを聞いたのは初めて」(二宮洋一=元日本代表、故人)と言うほど、すばらしいサッカー論だった。
 式場という、ほどよい緊張感と、東京オリンピックを間近に控えたサッカー界全体の空気、そして代表チームの監督という立場を離れたそのころのノコさんにとって、久しぶりに仲間を前にしての一席であったかもしれない。私はそのとき、テープレコーダーを持っていなかった不明を恥じた。
 今も、その場面を思い出すたびに、人生経験をさらに積み重ねながら、その後もサッカーを見続けたノコさんから、もっと多くの話を聞き出すことができたのに──と悔いが先に立つ。昭和55年(1980年)Jリーグスタートの13年前の10月6日、私達の大先達は74歳で去った。


★SOCCER COLUMN

「神出鬼没の美技を江湖に伝う」機関誌第1号の巻頭言
 昭和6年10月23日に発行された、大日本蹴球協会機関誌「蹴球」第1号の巻頭に、ときの会長、今村次吉(大日本体育協会理事、日本魯漁業社長)は次の通り述べている。

 本誌の使命

 蹴球会統制の審笛
 技法研究の機関
 会員団欒の楔子たらんとす

 更に本誌は
 肉彈相搏の壯觀
 觀衆熱狂の拍手
 神出鬼没の美技を江湖に伝う。
 (原文のまま)

「この機関誌はレフェリーの笛のごとくサッカー界の統制に役立ち、技術を研究する場であり、会員が集まり楽しむ『きっかけ』となりたい。
 さらに、サッカーの持つ、体と体がぶつかり合う壮観さや、観衆が熱狂するさま、そして、神出鬼没、ここと思えばあちらへと、相手をあざむき、ゴールに迫る妙技を世に伝えてゆきたい」

(注)
★楔子―くさびのこと
★江湖―川と湖、中国の揚子江(川)と洞庭湖(湖)仏教の故事から転じて「世間、世の中」という意味にも使われている。

サッカーに対する政治家の姿勢
 昭和32年(1957年)10月、戦後初めて日本サッカー代表選手団が中国を訪問した。
 第2次大戦後、社会主義の中華人民共和国と日本が国交正常化(1972年)する15年も前のことだったが、その年の春、日本体育協会はスポーツ交流促進のため視察団を送り、すでに事前の話し合いは進んでいた。
 中国からの招待を受ける形で編成されたチームは、その事前視察団の団長だった竹腰茂丸が団長、副団長に藤田静夫、監督・高橋英辰以下19選手、10月20日、北京での「八一隊」との試合を皮切りに、瀋陽、上海、広州を回って、7戦(2勝1分け4敗)した。前年のメルボルン・オリンピックの予選で韓国を制して本大会に進みながら、1回戦で敗退した日本代表を立て直す第一歩。広い中国で22日間に7試合の強行日程だったが、国がバックアップしている中国サッカーの実情、各地域のチームが日本代表と同等あるいは、上といったレベルを体で知ったのも、選手にはいい経験だった。
 写真は北京での試合前日、両チームの合同写真だが、ときの中国首相・周恩来が選手とともにカメラに納まっているところが、スポーツ、サッカーに対する政治家の姿勢が表れている。以来43年、ようやく日本でも首相が中田英寿を会食に招待するようにはなったのだが…。


(月刊グラン2000年7月号 No.76)

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