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読売クラブの初優勝

 1980年代前半の日本のサッカーは、代表チームが依然として“勝てない”ために、マスメディアの関心は薄かった。メディアが取り上げなければスタンドも寂しい。
 1980年の日本リーグの総観客数は19万6千人と20万に満たず、81年は16万3千人だった。
 1978年からキリンカップ(初めはジャパン・カップ)が、海外から強チームを迎える国際トーナメントとしてスタートしたのも、日本代表の強化と、トップ級のいい試合を見せるため。79年からゼロックス・スーパーサッカーが開催されるようになったのもサッカーの魅力、スーパースターの高い技術を多くの人に見てもらおうーという試みだった。
 世界のスポーツ界が、企業の宣伝とタイアップした冠(かんむり)大会が盛んになる時期でもあったが、海外のレベルの高いチームや選手を見るチャンスとなったこれらの定期的な交流試合は、ファンの目を肥えさせ、また選手に経験を積ませることになった。そしてまた1981年からトヨタカップが始まり、欧州と南米のチャンピオン対決で国立競技場を満員として、サッカーの潜在的な人気を掘り起こした。
 1980年の日本リーグは36歳の釜本がプレイング・マネジャーとしてヤンマーを引っ張って優勝した。ブラジル組はジュリオ上田だけで、役割分担の考え方が浸透し、釜本のゴール前での威力発揮を狙ったチーム戦術が成功した。次の年にヤンマーは4位へ下がるが、釜本が通算200点をマークして話題を集めた。
 この2年間は、日本が生んだ最高のストライカーがプレーヤーとしての最後の光彩を放った年になるが、こうしたなかでもブラジル人プレーヤーの往来は増え、彼らの働きが日本リーグの順位に直接響いた。
 81年はフジタ、読売がリーグ優勝を争い、フジタが優勝、読売は2位となった。フジタのDFの安定が大きなプラスになっていたが、中盤のカルバリオはやはりこのチームの柱だった。読売にとっては、ラモスのケガによる半シーズンの欠場が響いた。
 ラモスと与那城、トレドのブラジル・トリオが読売に日本リーグのタイトルをもたらすのは83年。1969年のクラブ創立から14年、日本リーグの2部(72年)から1部昇格(78年)と一つずつステップを上げたチーム作りが結実した。ボールテクニックを重視し、少年層からの育成を心がけたこのチームは、読売新聞や日本テレビといった企業のバックアップを受けながら、運営はクラブとして自主路線を貫いた。
 正確につなぐことは遅攻となり、攻めの効果が落ちるーと漠然と信じているものの多い日本のサッカー界で、技術が上がれば短いパスの攻撃は速くもなり、遅くもできることを見せ、これまでと違ったスタイルで多くの指導者の目を開かせた功績は素晴らしい。
 与那城、ラモスらのボールの持ち方やパスの受け渡しは、一緒にプレーすることで他の選手にも好影響を与える。小見や戸塚、都並、大友たちの成長はそのままチームの成長につながった。84年の連続優勝は、トラブルによる出場停止処分といったキズを乗り越えての栄冠だった。

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