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ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(上)

ベルリン逆転劇の口火ゴール

 オリンピックのサッカーで、1936年8月4日、対スウェーデン戦でゴールを挙げ、0−2からの逆転劇の口火を切った川本泰三(1914−1985年)──選手として非凡のゴールゲッターで、ゲームメーカー(プレーメーカー)であっただけでなく、独自のサッカー観と実行力は、年長、年少を問わず周囲に強い衝撃を与え、メキシコ・オリンピック得点王・釜本邦茂の成長の大きな力となった。早大卒業後、同盟通信社(現・共同通信社)の記者だったことがあり、当時のビッグイベントの東西対抗のコメントに「川本が東から西に移っただけで、西軍が勝つようでは、日本のサッカーは大したことはない」と署名入りで書いて周囲を唖然とさせたこともある。
 大戦後、学校の系列に関係ない「大阪サッカークラブ」をつくって、天皇杯などで活躍、40歳まで日本代表としてプレーし、日本サッカー協会の技術指導部委員として竹腰重丸を助けて、戦後の技術レベル回復に努め、また東京オリンピックのときには、大阪で5、6位決定トーナメント開催を推進した。
 自らの会社の経営にも手腕を発揮したが、ゲームやそれぞれの選手の技術やキャラクターを見通す目は鋭く、今でも、私は「名人」は××選手をどう思うだろうと、天に向かって問いかける。


ベルリンの衝撃とノーベル賞

 1949年、日本初のノーベル賞(物理学)受賞者、湯川秀樹博士がストックホルムでのインタビューのときに、スウェーデンの記者からサッカーのボールを手渡され、博士はそれをヘディングする格好をして拍手を浴びたことがある。その記者の茶目っ気もあるが、スウェーデン人にとって、日本についての最も鮮明な記憶は、1936年のベルリン・オリンピックでのサッカーの逆転負けであることを伝えたかったのだという。日本ではサッカー関係者の中だけでの伝説となっていたこの事件は、大戦を経て13年後にもストックホルムでは、まだ忘れられていなかったようだ。
 優勝候補と自他ともに許していたスウェーデン代表チームが2−0のリードから3−2に逆転されるとは信じがたいショックであったらしい。スウェーデン人だけでなく、開催国ドイツでも同じで、1960年に初来日したデットマール・クラマーは挨拶の初めに、「少年のときに、ベルリンの逆転劇を聞いたのが日本への強い興味を持つきっかけ」と語った。
 1992年の欧州選手権がスウェーデンで開催されたとき、ストックホルムからイエーテボリへの飛行機の中で若い人から、1936年の話を聞かされ、欧州サッカー連盟のヨハンソン会長に「日本は戦後、スウェーデンとの交流で新知識を得た」と礼を言うと、「1936年はスウェーデンでは大変だった」と手で顔を覆って見せた。
 1951年、戦後初の欧州チームとして来日したスウェーデン・リーグの優勝チーム「ヘルシングボーリュ」のテグナー団長は、川本泰三と会うと、「バッドボーイ」とまず言った。


大学生の選抜チーム

 ベルリン・オリンピックの代表チームは、関東大学リーグ3連勝中の早大から10人、東大からOBも含めて3人、慶応と東京高師と京城普成専門から各1人ずつ選ばれた16人。これに鈴木重義監督、竹腰重丸、工藤孝一の両コーチがついた。竹腰コーチは、以前この連載でも紹介した(5〜7月号)。工藤コーチは早大の学生時代からマネージャーを務め、1933年、卒業とともに監督となった。早大はそれまで正式な監督は置いておらず、以来、1971年に亡くなるまで生涯、早大の蹴球部を見続けた。日本サッカー史の中でも希有な指導者の一人。
 16人の選手は別表のポジションだが、FB(フルバック)は今のDF、HB(ハーフバック)は守備的MFというところ。このうち種田孝一はベルリンに着いてから、それまでの2FBシステムを3FBに変え、そのCFBとなり、DFラインは東大OBで、1930年の極東大会の経験者、竹内、左は堀江または鈴木、守備的MFは右が立原、または笹野、左が金容植。この人は、当時日本であった朝鮮半島きっての名選手で、戦後は長い間、韓国サッカー界の神格的な存在。ボールをヘディングしながら、あるいは頭に乗せたままピッチを一周するなどのエピソードはいっぱい。FKの強烈さでも知られていた。
 FWはメンバー表記入は5人だが、普通はW型でインナーと称する2人が後退し、今でいう攻撃的MFに当たる。このポジションには万能型、どのポジションもこなす右近が右、左が加茂兄弟の兄・健、控えが西邑、ウイングは右が高橋または松永、左は加茂弟の正五。身体能力に優れ、ドリブルが得意。CF(センターフォワード)は川本。1931年に市岡中学を卒業して早大に入ると、高等学院(予科に当たる)1年の秋のリーグから出場し、得点を重ねていた。
 役割は──守備は3FBと両HBにFWの右近も加わり、攻撃はもっぱら左サイドの加茂兄弟と川本の早大トリオ。そして自分たちのボールになると、運動量の大きい金容植も攻撃参加、右近もフォローに飛び出す。そのために、川本のキープ力で「間」を持たせること、そして左サイドの突破力が重要。俊足の右サイドの松永には、一気の突進が期待されていた。


得意の型のシュートで口火

 1936年8月4日、ベルリンのヘルタ・ベルリンFCのホーム競技場での試合は、前半始めからスウェーデンの圧倒的な攻撃が続いた。両チームとも3FBで守ったが、日本のそれは次第に押し込まれる。
 日本の攻撃もよいところがある──とベルリンの週刊フスバルは記しているが、24分にスウェーデンが先制し、37分にも2点目を加えた。GK佐野理平は好セーブを見せていたが、無失点は無理な注文だった。
 ハーフタイムで日本側はギリギリまで追いつめられた気持ちから、すっぽりと裸にならざるを得なくなっていた。
 川本は「気後れも僥倖(ぎょうこう)を頼む甘さももう捨てないわけにはゆかなかった。そして気にかかっていた忘れ物のありかを、ふっと思い出した。『なあんだ、こんなところに……』といった軽い気持ち……。そんな、ちょっとウキウキしたような調子が、重い空気の底から沸いてきた」──と回想している。
「グラウンドへ出ると、前半であらまし私たちの実力を見極めたのと、2点のリードで大きな北欧人たちはすっかり安心に膨らんでいる様子だった」
「ほとんど動かない敵バックスに向けて、日本独特のショートパスが練習のような調子で2、3度滑っていった。それにつられて、相手右FBがのこのこ前進してきて、左側の三角パスの中へ入り込んでしまった。
 加茂弟がサイドラインから斜めに切り込んでゆく、いいスピードだった。センタースリーもゴールへダッシュ。CFの私が走った後を低く送られたクロスが通り、フォローした右近から私へ縦パスとなって渡ったとき、私は完全にフリーになっていた。足下へ流れるボールをそのまま右足のアウトサイドに引っかけてシュートした(中学校を出て早大へ入った年のリーグ戦の最初の試合で、一番始めに得点したのがこの型のシュートだった)。蹴ってからゴールを見る、あまりスピードはないが、思った通り、右ポストすれすれのところへ低く伸びていった」
 日本サッカーのオリンピック初ゴール、北欧の巨人を驚かせる逆転劇は始まった。


★OLYMPIC MINI MEMO

 シドニー・オリンピックの準々決勝敗退はいささか残念でした。ベスト4に入れば、そこから勝てば決勝へ、負けても3位決定戦に出られるのだから、選手たちはこの大会で6試合の経験を積めるのに、4試合で終わってしまったのは、誠に惜しいこと。もっとも、チームの軸である中田英寿が、誰の目にもはっきりとわかるほど調子がよくなかったから、それで、メダル獲得ができるほど、オリンピックは甘くないということかもしれません。
 しかし、ともかくも前回のアトランタ大会に続いて2回連続してオリンピックに出場し、ベスト8に勝ち残ったのは、日本サッカーの進歩を示すものといえます。何しろFIFA(国際サッカー連盟)加盟国2000の中での8チームなのだから──。ついでながら、20世紀のオリンピック・サッカー、その92年の歴史の中でメダルを獲得した国は27、日本はアジアでただ一つ、その中に入っています。


日本サッカーのオリンピック成績

★1936年ベルリン大会
○(1)3−2 スウェーデン
●準々 0−8 イタリア

★1956年メルボルン大会
●(1)0−2 オーストラリア

★1964年東京大会
○ G 3−2 アルゼンチン
● G 2−3 ガーナ
●準々 0−4 チェコスロバキア

★1968年メキシコ大会
○ G 3−1 ナイジェリア
△ G 1−1 ブラジル
△ G 0−0 スペイン
○準々 3−1 フランス
●準決 0−5 ハンガリー
○3決 2−0 メキシコ

★1996年アトランタ大会
○ G 1−0 ブラジル
● G 0−2 ナイジェリア
○ G 3−2 ハンガリー

★2000年シドニー大会
○ G 2−1 南アフリカ
○ G 2−1 スロバキア
● G 0−1 ブラジル
●準々 2−2(4PK5)アメリカ

トータル 9勝2分け8敗、得点27、失点38

(注)Gはグループリーグ(1次リーグ)、(1)はノックアウトシステムの1回戦、準々は準々決勝、準決は準決勝、3決は3位決定戦の略。

オリンピックの得点者たち
 オリンピックでの日本のゴールは──初出場の1936年8月4日(対スウェーデン)から2000年9月23日(対アメリカ)までの64年間に合計27得点、ゴールを決めたプレーヤーは16人。ベルリンの奇跡といわれた逆転劇の口火を切った川本泰三のシュートから、すべての日本ファンにベスト4への希望を膨らませた高橋直泰のヘディングとそのリバウンドの蹴り込みまで、その一つひとつには、日本サッカーの歴史が刻まれている。

★1936年(2試合3得点)
川本泰三、右近徳太郎、松永行

★1964年(3試合5得点)
杉山隆一(2)、川淵三郎、小城得達、八重樫茂生

★1968年(6試合9得点)
釜本邦茂(7)、渡辺正(2)

★1996年(3試合4得点)
前園真聖(2)、伊東輝悦、上村健一

★2000年(4試合6得点)
高原直泰(3)、中田英寿、稲本潤一、柳沢敦

メダル獲得国は
 サッカーがオリンピックの公式競技となった1908年(第4回ロンドン大会)から2000年シドニー大会までのメダルを獲得した国は27ヶ国(旧東ドイツを加えている)。ヨーロッパ以外は8ヶ国で、南米が4、アフリカが3、アジアは日本が唯一のメダル国となっている。

★5個
ハンガリー(金3、銀1、銅1)・ソ連(金2、銅3)・ユーゴスラビア(金1、銀3、銅1)

★4個
デンマーク(銀3、銅1)・旧東ドイツ(金1、銀1、銅2)

★3個
スウェーデン(金1、銅2)・ポーランド(金1、銀2)・ブラジル(銀2、銅1)・オランダ(銅3)・スペイン(金1、銀2)

★2個
イギリス(金2)・ウルグアイ(金2)・チェコスロバキア(金1、銀1)・イタリア(金1、銅1)・アルゼンチン(銀2)・ブルガリア(銀1、銅1)
★1個
ベルギー(金1)・フランス(金1)・ナイジェリア(金1)・オーストリア(銀1)・スイス(銀1)・西ドイツ(銅1)・ノルウェー(銅1)・日本(銅1)・ガーナ(銅1)・カメルーン(金1)・チリ(銅1)

(注)1972年のミュンヘン大会では、ソ連と東ドイツがともに2位のため、メダルの総数は61個となる。


(月刊グラン2000年11月号 No.80)

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