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時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(上)

 日本のサッカーが今日のような「かたち」をつくるのにかかわった多くの人の中から、その時々の中心人物、その時期、その後に大きな影響のあった人をピックアップしてみよう──と始めたのが「このくに と サッカー」の連載。昭和のサッカー技術の大先達、竹腰重丸さんを5、6、7月号で紹介しました。大正末期のチョー・ディンの直弟子であり、その教えと自らの工夫で昭和初期のレベルアップの先頭に立った通称ノコさんに続いては、同時代に関西にあって、世界的な視野でサッカーに取り組んだ田辺五兵衛さん(故人・1908−1972年)──昭和5年(1930年)の極東大会から同11年(1936年)のベルリン・オリンピックに若い情熱を燃やし、戦後は関西蹴球大会会長、日本協会副会長として復興に力を尽くしただけでなく、膨大な図書資料をはじめ、各国、各クラブの記念グッズ、切手などの収集と、それを基盤とする広汎な知識は、まさに博覧強記。そのサッカー談義は、戦中、戦後の鎖国期にあって、私たちの後輩には世界への窓であり、歴史の扉でした。


大コーチも驚いた田辺文庫

「素晴らしい。日本へ来て、イングランドの古いクラブの雰囲気を味わうとは──」とクーパー・コーチは賛嘆した。
 世界のトップ選手のプレー、フェイントを分析し、そこから少年たちのテクニック・アップを導くクーパーの指導法は、今、世界各国に取り入れられ、日本でもクーパー・メゾッドを看板とするコースもある。その大本山のクーパーさん自身が指導法公開のために来日し、神戸FCを訪れて、このクラブの田辺文庫に案内され、驚きの声を上げたのだった。
 日本で初の法人格の市民サッカークラブ、神戸FCの事務所はアマチュアらしく、創始者・加藤正信さんの宅地内に造られた小さな木造2階建てで、書庫もまた狭く、図書の量も、飾り棚に置かれたトロフィーや記念品の数も欧州、南米のビッグクラブに比ぶべきではないが、クーパーさんは、その多様さと、古い物の集積からにじみ出る書庫の空気に「イングランドの伝統的クラブ」と同種のニオイをかぎとったに違いない。
 田辺文庫は昭和47年(1972年)10月16日に亡くなった田辺五兵衛さんのサッカー蔵書と関連収集品を遺族から神戸FCが預かり、クラブハウス建設の際に同家からの寄付金をもとに、コンクリート造りの書庫を併設し、収蔵したもの。1500点を超える図書の中には、蹴鞠関連が45点「飛鳥井家鞠道口伝日記」「群書類従 蹴鞠の部」などもあり、別室のショーケースの「箱入りの鞠」とともに蹴鞠に興味を持つ人には誠に貴重。
 サッカー図書では、古いところは東京高師フットボール部編「アソシエーション フットボール」──私たち世代が中学生のころに渇望した技術解説書や、東大サッカー部の始祖・野津謙と早大の大御所・鈴木重義共著の「ア式蹴球」、サッカー記者の草分け・山田午郎の「ア式フットボール」(大正14年刊)といった珍しいものから、梶原一騎原作のマンガ「赤き血のイレブン」も。
 洋書では英語がほとんどだが、スポーツ図書の古典ともいえる「BADMINTON LIBRARY」1889年版の「ATHLETICS&FOOTBALL」や1930年代のアーセナルの名監督チャップマンの「HERBERT CHAPMAN ON FOOTBALL」をはじめ400冊、イングランド協会(FA)の出版物も多いが、FAのハンドブックが年代別に3冊もあるのは、田辺さん自身が若いころから協会運営にかかわり、範をサッカー母国にとっていたからだろう。


先輩のいない学校で独学サッカー

 田辺五兵衛さんは明治41年(1908年)3月18日生まれだから、前号掲載の竹腰重丸、通称・ノコさんより2歳年少だった。
 家系は延宝6年(1678年)の創業以来、現在の田辺製薬に至る薬業の名家。初代の田辺屋五兵衛以来、「五兵衛」が通り名で、若いうちは治太郎だったから、古いサッカー仲間、私からいえば先輩たちは「治太はん」と親しみと尊敬を込めて呼んでいた。
 「治太はん」がサッカーに打ち込むのは桃山中学に進んでから。英国人の校長ローリングスの奨励はあったが、大正元年(1912年)創立の明星商業(現・明星高校)や天王寺、池田などの師範学校にはなかなか勝てず、2年生(大正10年)のときの明星との試合では、相手はレギュラーを引っ込めた補欠ばかりで、悔しい思いをしたという。
 先輩のいない桃山中で上手になり、チームを強くするため「治太はん」のサッカー独学が始まり、5年生のときには明星に勝つまでになった。
 大阪商大(現・大阪市大)に進んだ「治太はん」は、明星出身の仲間たちとサッカー部をつくるが、このころすでに外国の文献を求めて丸善へ足を運び、大学でのプレーと桃山中学の後輩の指導に情熱を注いだ。
 同じ世代でも、神戸一中の私の先輩たちの多くは小学校でボールに親しみ、大正中期の対御影師範との試合やビルマ(現・ミャンマー)人チョー・ディンの指導などで、すでに個人技やチーム力向上の練習などにも伝承があり、大正14年(1925年)の全国大会に優勝し、「神戸一中のショートパス」とそのスタイルを知られたのだが、この大会の2回戦で豊田、若林、沢野たち、後に慶応、東大、京大などで活躍する選手のいたチームに「治太はん」たちは0−3で完敗した。相手を研究し、十分な対策を練ってなお、敗れたのだが、それだけに、サッカーの技術と戦術の発達の課程を身をもって味わったといえる。


在学中から協会の仕事を

 サッカーの技術面だけでなく、「治太はん」は大学の在学中に、全国中学校選手権大会の運営にかかわることになる。
 そしてまた、関西の学生リーグを盛り立て、関西サッカーの普及とレベルアップのために、それまで大日本蹴球協会の「支部」であった2府4県を、一つにまとめる関西蹴球協会の設立にも力を尽くした。当時の自宅、大阪・上本町の応接間はサッカー人の溜まり場となり、協会の事務所ともなった。

 根っからの大阪人であり、「関西のため」が信条であっても、常に日本と世界のサッカーを見通す「治太はん」は、昭和5年の第10回極東大会でも、日本代表の世話役を務める。
 チームのキャプテンでリーダーであったノコさん──竹腰重丸を陰で支え、関東、関西から選抜された選手たちの融和にも気を配った。チームが中華民国(現・中国)と3−3の大激戦で引き分けた後、試合後に立つことも歩くこともできなかったノコさんを、宿舎の日本青年館まで背負って帰ったのは体格のいい「治太はん」だった。


★SOCCER COLUMN

EUROも五輪も「予選」でなく「1次」リーグに
 しばらく消えていた“予選リーグ”という呼称が「EURO2000」つまりヨーロッパ選手権を報道するテレビの中で横行している。
 EURO2000に集まるチームは地域予選を勝ち抜いた14チームと共同開催の2ヶ国、オランダとベルギーの合計16チームだから、大会に入って「予選」をするわけはない。16チームを4チームずつの4組に分け、その組内での総当たりのリーグを行なうのは「予選リーグ」ではなく、「グループ・リーグ」または「1次リーグ」と呼ぶことになっている。
 もともと、この点については昭和39年(1964年)の東京オリンピックのときに、日本サッカー協会が「グループ・リーグ、または1次リーグと呼ぶ」と決めていた。そして、その各組上位2チーム、合計8チームによって行なわれるノックアウト・システム戦は、準々決勝(英語のクオーター・ファイナル)であって「決勝トーナメント」ではない。
 決勝トーナメントという世界に通じない日本式呼称は、2002年大会の前に改めなければならないが、せっかく98年W杯フランス大会の組合せの日から、それまでの誤った「予選」を正しい「1次リーグ」に統一したのが、2年でまた間違い始めたので驚いている次第。
 これも、2年前の「歴史」にも無頓着な日本サッカー式と言えばそれまでだが。

近い将来インターネットで
 田辺さんの残したこれらの資料は、1年半前からスタートしたインターネットのホームページ『Kagawa Soccer Library』のコンテンツに加え、多くのサッカー人に役立つよう計画中。
 まだ、その目録さえも入力していないが、目録そのものも、田辺家の書庫から神戸FCに移す際に、とりあえず作成したもので、分類などもきちんとした上で入力していきたい。もちろん、英語での表記も必要――また蹴鞠の古文書などは、読み解くのが一苦労だが、たとえ現代語訳がすぐにはできなくても、スキャナーで写し取っておけば、誰かが読解してくれるだろう。博覧強記ならざる浅学非才の後輩は、田辺さんの知的遺産を前に、もうひと踏ん張りしなければならぬ。

阪神大震災にも耐えた田辺文庫
 平成7年(1995年)1月17日の阪神大震災――。神戸FCの木造2階建てのクラブハウスは大揺れに揺れ、危うく倒壊するところだったが、北川に併設したコンクリート製の田辺文庫(書庫)が頑丈だったおかげで、倒れずに済んだ。
 蔵書を大切に保管しようと、湿気を避ける工夫と、火事に遭っても大丈夫なようにと、むしろ耐火を念頭にした建物だったが、その書庫の強度に支えられて、事務所を含めた建物全体が助かったのだった。クラブ員が集めた千数百万円の資金で作った小さなクラブハウスは今も健在だ。


(月刊グラン2000年8月号 No.77)

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