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時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(中)

中国でのデットマール・クラマーさん

 この原稿を旅先──中国・河北省泰皇島市(QINGHUANDAO CITY)の佳倫酒店(JIAL LUN HOTEL)で書いています。7月4日にヨーロッパ選手権の取材から帰った後、7月20日からこちらへ来ました。今度は4日の短期ですが、この町にある中国足球学校、つまりサッカースクールで指導しているデットマール・クラマーに会うのが目的です。1960年(昭和35年)から日本を指導し、64年東京オリンピックのベスト8進出、68年メキシコ・オリンピック銅メダルといった代表チームの成績だけでなく、日本サッカーのすべてに大きな改革をもたらす力を注入した偉大な「師」──その彼が75歳の今も中国で直接、指導していると聞いて、ぜひ会いたいと思ったからです。
 クラマー・コーチについては、いずれこの連載にも登場してもらうことになりますが、相変わらず元気で、自らもフィジカル・フィットネスに努め、早朝にまずダンベルを持っての、いくつかのエクササイズをこなしてから、実技、講義のびっしり詰まったコーチング・コースのスケジュールをこなしていることと、日本の友人たちによろしくとのメッセージをお伝えしておきます。


ベルリンへ自費渡航の役員志願

 さて、今回は前号に続いての田辺五兵衛さん(明治41年−昭和53年)。大正末期から昭和初期に、日本サッカーの技術アップの先頭に立った竹腰重丸とほぼ同年代に、関西にあって、世界的な視野から日本サッカーをさぐり、海外の文献を取り寄せ、自らも外遊して見聞を広めるとともに、若いうちから協会の運営にタッチし、大阪、兵庫、京都を中心に、2府4県をまとめた関西蹴球協会をスタートさせ、戦前の発展期の大きな推進力となった先覚者。大戦争で荒廃した日本とサッカーが再生するときには、その復興の先頭に立ち、自らの会社、田辺製薬に強チームを作り上げて実業団の到来を告げ、協会運営の第一線から退いた後も、少年サッカー、女子サッカーの興隆からクラブ育成と、サッカー界発展のすべての部門にかかわり、没後には、自らの収集品と膨大な文献を「田辺文庫」のかたちで残した偉大な先人です。
 前号で、その「知的遺産」のひとつ、田辺文庫を紹介し、1930年(昭和5年)の極東大会への傾倒ぶりに触れました。
 今度は、その前半生で最もご本人が楽しかった1936年(昭和11年)のベルリンへ・オリンピックからはじめることにします。
 6年前の極東大会(東京)でフィリピンに大勝し、中国に引き分け(3−3)て、中国に追い付けの目標を果たしながら、次の目標である1932年(昭和7年)のロサンゼルス・オリンピックには、ブロークン・タイム・ペイメント(休業補償)をアマチュアと認めるかどうかが解決しないまま、サッカーが大会では開催されないことになって、せっかくの蓄積をひのき舞台で発揮できなかった日本サッカーは、1940年(昭和15年)にオリンピックを東京に誘致するため、大選手団を派遣するJOCの戦略は誠にうれしいものだった。
 フトコロの豊かでないスポーツ界、サッカーの派遣費が全額JOCで負担されるのではなく、JFAもまた募金活動を行なったのだが、その募金リストの中に「田辺治太郎、参阡圓」──の数字が残っている。
 薬業界の老舗、初代以来、当主は五兵衛を襲名するが、若い頃は治太郎の名。そこから「治太はん」と関西の仲間は呼んでいたが、当時なら相当な邸宅を買えるこの金額の大きさに、治太はんのベルリンへの思い入れがこもっている。
 6月20日に出発し、シベリア鉄道を使ってベルリンに向かう選手団とは別に「治太はん」は神戸港からヨーロッパ・マルセイユに向かう船に乗る。資金や人員枠に余裕のない代表選手団とは別の「自費渡航」。ただし、選手村に出入りできるよう正式のアタッシュの役柄は、大阪財界の重鎮で陸上競技の大先輩、春日弘さんの口添えで、しっかりと手に入れていた。
 そのベルリンで「治太はん」は自分の同世代のノコさん(竹腰重丸)らで築いた1930年の第10回極東大会での実績の上に立って、大正シングル生まれの後輩たちが、優勝候補のスウェーデンに逆転勝ちする「奇蹟」を見た。


欧州見聞、関西協会設立

 大会後にドイツ、スイスを転戦した後、マルセイユから船で帰国するチームと別れ、イングランドに足を運び、FA(フットボール・アソシエーション)の若き事務局長、スタンリー・ラウスに会い、1部リーグを観戦する。ロンドンの古本屋街、チャーリング・クロス・ロードのフォイル書店の地下室で「バトミントン・ライブラリー」の1889年版と1899年版や、サービス・アソシエーションつまりアーミー(陸軍)ロイヤル・ネービー(海軍)ロイヤル・エアフォース(空軍)の3軍のサッカー協会年鑑などを手に入れたのも、このときだった。
 アーセナルのスタジアムで見た対エバートン。エバートンの誇るCFディーンとアーセナルの名CHロバーツの文字通りの一騎打ちの魅力は、後にサッカー講義の一節として、後輩は再三聞かされるのだが、戦前の黄金期のイングランド・サッカーに接した「治太はん」は剛毅不屈、激しくあっても汚くはない(この時期の)イングランドへの傾倒をさらに深めた。
 ベルリンの後、日本サッカー発展と同時に関西の向上がこの人の命題となる。
 大阪、兵庫、京都を軸に、近畿2府4県をまとめて関西協会を設立し、その事務所を自らの会社の中に置いた。1918年(大正7年)に大阪毎日新聞主催で始まり、すでに全国規模の大会となった全国中等学校蹴球選手権をより大きく、高くするためにも、1924年(大正13年)開始の関西学生リーグのレベルアップにも、サッカーでの関西という広域行政が必要と考えたからだった。


天覧試合のご説明役

 その成果が大きく現れる前に、太平洋戦争と、それに伴う物資の欠乏、特に革製品、ボールがなくなることがサッカーを直撃して暗黒時代に入る。
 大戦が終わり、ブランクを克服しようとサッカー復興の先頭に立つ「治太はん」は同時に田辺五兵衛となって、会社経営の重責をも担うことになる。
 1947年(昭和22年)4月の東西対抗、昭和天皇の天覧試合となったこのビッグイベントは、ベルリン五輪代表と、その直後の世代、いわゆる戦前派の東軍に対して、関西協会は戦中派の若手に切り替えたチームを送った。アメリカ軍の接収下にあった神宮球技場(現・国立競技場)もこの日は満員、久しぶりのサッカーの魅力に沸き、2−2の好勝負になった。
 大戦での荒廃から立ち上がろうとする国民を励ましたいと、この年から国内巡行を計画された昭和天皇には、元気なプレーがよほど気に入られたのだろうか、試合後、グラウンドに下りて、1列に並ぶ選手たちのお見送りを受けられるとき、急に足を止めて選手たちに「今日は、元気な試合を見せてもらってありがとう。どうか日本の再建のために頑張ってほしい」と、予定にないお言葉をかけられたのだった。
 このときの心の結びつきが、後に日本協会への天皇杯の下賜となり、現在の元日の天皇杯決勝に至るのだが、当日、貴賓席で昭和天皇と皇太子殿下(現・天皇陛下)のご説明役を務めたのが、当時の日本協会副会長、田辺五兵衛だった。
 陛下にはご下問があるまでは、こちらからは申し上げないということになっていたから、そう何度も申し上げたわけではないが、ずいぶん熱心に身を乗り出してご覧になっていた。
「さがったねぇ」と言われたとき、ポジションのことと察して、ご説明したら、陛下はホッケーをされたことがあって、CHが後追する3FB制をすぐ理解されたようだった。今、流行のフラット3と同じような会話が50余年前の昭和天皇との間に交わされていたのだろうか──。
 このときの両軍のメンバーの何人かが、のちの田辺製薬のチームで無敗記録をつくることになる。


★SOCCER COLUMN

スタンレー・ラウスFIFA会長
 1936年にFA(フットボール・アソシエーション)を訪れ、事務局長スタンレー・ラウス氏に会ったとき、ネクタイピンを贈ったら、3匹のライオンと10輪のバラの花のFAの紋章入り財布をもらった。
 28年後、1964年の東京オリンピックのとき、FIFA会長として来日したラウス氏と会った。「あなたにもらった財布です」と見せたところ、彼もネクタイピンを示して「これは君にもらったものだ」と言った。
 友あり、遠方より来る。また楽しからずや――。  (田辺五兵衛『烏球亭雑話』より)

ペンデルはその昔 釣り鞠といいました
 蹴鞠の練習法に「釣り鞠」というのがある。天井から鞠を吊り下げて、蹴る要領を練習し身につけるのである。
 久世通章著『蹴鞠』の説明によると、これは「稽古の第一歩」であり「これにより姿勢をつくり、足の動作を覚える」とある。サッカーの練習法に、この釣り球の方法がある。球に足の当たり方、球への感触を練習、自得するひとつの方法である。
 時代を超えて、洋の東西を問わず、考えることが同じであるのは面白い。  (田辺五兵衛『烏球亭雑話』より)

日本はハダシのサッカー
 1936年6月、カナディアン・パシフィックのモンテローズ号で、フランスのルアーブル港に入り、欧州大陸への第一歩を印したとき、イの一番に新聞記者につかまった。
 スポーツ記者らしく、こちらが蹴球役員だと調べてのうえである。
「日本でクツをはいて蹴球をするのか」と言うところがシャクである。
「どこの世界にクツをはかないで蹴球ができるか」と反撃する。
「もちろん、だがインドでは――」と言う。
 さらに「どんな戦法をしているのか」と聞くので、「ヨーロッパと同じ。Wフォーメーションもスリーバック・システムも何でもやっている」。
「日本はいつごろからやっているのか」
「約40年にもなる」と引導を渡してパリ行きの列車に乗った。  (田辺五兵衛『烏球亭雑話』より)


(月刊グラン2000年9月号 No.78)

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