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時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(下)

 第2次大戦が終結した昭和20年(1945年)田辺五兵衛は、荒廃の中から会社の再建とサッカーの復興の二つの仕事に取り組む。
 亡父の跡を継いで第14代五兵衛を襲名し、社長となったのは大戦の始まる直前、昭和16年(1941年)12月5日、33歳の若さだった。
 昭和18年(1943年)に会社名を「田辺製薬株式会社」と改めた。海外との貿易が閉ざされ、それまでの薬種貿易問屋から医薬製造企業へ転換する変革の現れであり、その前年、新しい社章を発表し、社是を制定したのも、激変する時局への対応だった。
 空襲による被害は加島、本庄などの4工場2分工場におよび、本庄、加島は41〜47パーセントが破壊され、ほかは100パーセント消失という、薬業界では最大の戦争被害を受けた。
 人員整理を伴う会社の難問を解決してゆきながら、戦争のため停滞した日本サッカーの再出発にも心を砕いた。


全日本事業団で6連勝

 その中での大きな成果の一つが田辺製薬サッカーチームだった。
 まだ「田辺五兵衛商店」と名乗っていた昭和2年(1927年)に「治太はん」の発案で生まれたサッカー部の本格的な強化が始まったのは昭和23年(1948年)から。それまでの宮田孝治(早大)種田顕二(東大=21年入社)加藤信幸(東大=22年入社)らに、賀川太郎(神戸大)木下勇(神戸大)寺島登(早大)津田慶次(早大)松原嘉彦(明星商)が加わってチームの骨格が固まり、昭和25年(1950年)に鴇田正憲、岡村敬(以上関学)和田津苗(関大)とそろった。

 朝日新聞社によって昭和23年にスタートした全日本実業団選手権の第1回は準優勝、第2回は3位だったが、第3回(昭和25年)に初優勝した。以来、彼らは6年連続して実業団ナンバーワンの座に就いた。
 チームの主力のほとんどが大正生まれの戦中派。小学校、中学校と順調にサッカーを身につけながら、戦争のため、学生選手生活を軍務に中断され、あるいは練習が不十分であったりした。ベルリン・オリンピック世代に比べて、大学時代の最も伸び盛りを戦争によって奪われた彼らは、学校を離れた後も、このチームに入ってサッカーを続けることで技を磨くことができた。


企業チーム時代を見越す先見性

「サッカーの普及とレベルアップには強力で優れたチームを一つつくり、それに対抗する勢力を増やしてゆくことが必要だと考え、チーム補強が始まった」(宮田孝治)
 敗戦によって、徴兵制度がなくなったことで、企業チームが大学チームよりも有利になると、後の実業団時代を見越した先見性もあった。当時の会社の状態は、グラウンドや合宿所の整備といった練習環境にまで手を回す余裕はなく、サッカーのスター選手、日本代表たちも、まず第一義的には会社の仕事。サッカーは余暇というのが不文律となっていた。従って練習も仕事が終わった後、大阪のうつぼ公園で行ない、照明のない当時はボールに石灰を塗って白くし、見やすくしていた。
 決して恵まれたとはいえない環境で、6年連続優勝、94戦92勝1分け1抽選勝ち、と勝ち続けたのは、チームの骨格をつくるメンバーの技術がしっかりしていたこと、それら中心の選手の負けず嫌いの性格と、個々の努力の集積があったこと。そして、彼らが、何より「治太はん」のサッカー観に共鳴し「治太はん」によって啓発され、成長したことにあった。


天皇杯にはあえて不参加

 日本のサッカー史では「実業団時代のはじまり」は古河電工が天皇杯に優勝した昭和35年(1960年)からだが、全盛期の田辺製薬が、もし天皇杯に出場していれば、何回かの優勝を記録したはずだ。一つには昭和25〜30年当時、このチームが出場すれば、大阪クラブ、関学クラブ、関大クラブといった天皇杯の上位常連チームが軸を失うことになることもあったが、もう一つは「日本代表クラスの選手を集めて(選手たちはまったくアマチュアであっても)伝統ある天皇杯に勝つことで、会社の宣伝に利用していると取られることを嫌ったから」(当時の手島志郎常務)でもあった。
 手島常務は、昭和5年(1930年)の極東大会の日本代表のセンターフォワードで、五兵衛社長とともにチームの強化、選手のレベルアップにも気を配っていた一人。この「宣伝…」はアマチュア論議のやかましい当時にあっても、いささか潔癖すぎる感がないでもない。ただし、これには伏線があって、田辺のイレブンが全日本実業団選手権に集中することで、この大会での「打倒田辺」をより難しくし、各チームのレベルアップにつながると考えたからでもある。
 このチームのもう一つの功績は、30歳になってもプレーヤーの技術は伸びることを示していたこと。チームの看板であったHB(守備的MF)宮田孝治のボールを奪う巧さと強さ、攻撃の右サイドの鴇田正憲、賀川太郎のキープとパスと突破とフィニッシュは、年を経るごとにステップアップした。若い頃はスピードによる突破が唯一の武器だった鴇田が、3歳年長の賀川とのペアで、パスの受け渡しの呼吸、スタートダッシュのタイミング、視野の広さや読み──を身につけ、昭和31年(1956年)のメルボルン・オリンピック予選では、八重樫や内野たちの若い代表のリーダーとなって、韓国との予選を突破する力となった。そのメルボルン大会の直前に来日し、日本代表や関西選抜との試合を重ねたアメリカ代表のコーチは、関西選抜の宮田孝治を見て「なぜ彼が代表チームにいないのか」と不思議そうだった。

 会社内に日本一のチームをつくり、日本サッカー復興に大きな刺激を与えた五兵衛は、昭和34年(1959年)に会長となり、20年続けた社長のポストを譲ると、日本協会の副会長、関西協会会長などサッカーをはじめスポーツ関係の役職から離れる。
 若いうちから、常に会社とサッカーの中枢にあったポジションから、一歩退いて眺める立場(日本協会も顧問となる)となった五兵衛は、その博覧強記の一端をJFAの機関誌に掲載し始める。
 東京オリンピック(昭和39年)を前に、サッカーが再スタートを切ろうとする時期、、機関誌24号から、メキシコ・オリンピック(昭和43年)で銅メダルを取り、昭和45年(1970年)の大阪万博を過ぎる、機関誌98号までだったか、蓄えた知識と、集めた膨大な古今東西の資料を基にした「烏球亭雑話」はまさにサッカーの万華鏡といえた。
 その中には、直接、間接に今のサッカー界に影響を与えるものも少なくない。


白黒ボールの推奨

 その一つにサッカーボールの代名詞のようになっている白黒ボールがある。
 機関誌33号に、
「今秋ドイツに出かけたとき、新聞雑誌に載っている写真に、白と黒のまだらのボールを見た。運動具店で実物に見参した。テレビでは、この方がよく映るらしい。これは我が国でも早速取り入れるべきだと思った。チューリヒのFIFAにも、ロンドンのFAにも帰路、機会があったので聞き合わせてみた。競技規則には大きさと重さの規定はあるが、色には規定がないという返事で、公式試合にこの白黒まだらのボールの使用を公認している。よいことは早速実行に移すべきと思う」(抜粋)
 と、東京オリンピックにも使うよう提言している。機関誌37号で再度「プレーヤーはやりやすいと言っている」とプッシュした。
 東京オリンピックには使われなかったが、昭和40年(1965年)長沼健(現・日本協会名誉会長)岡野俊一郎(現・協会会長)ら若い改革派の推進力で、日本サッカーリーグがスタートするとき、白黒ボールが使用され、一気に子どもたちにも人気となったのだった。


少年サッカー、クラブ育成のカゲに

 協会の公職から離れても、「草の根」の動きには進んで協力した。少年サッカーの推進者としても有名なドクターの加藤正信(故人)は、なにかを起こすときには必ず五兵衛宅へ足を運び、あるいは電話で意見を聞いた。加藤ドクターが開催したサッカーフェスティバルで、女子同士の試合に女子のレフェリーが登場したのも、「女性をサッカーに取り込もう」という五兵衛のアイディアの一つだったし、神戸フットボールクラブという日本では全く新しい法人格の市民スポーツクラブの創設も「烏球亭」のバックアップがドクターの心の支えとなっていた。
 オリンピックのメダルも取った。少年たちへの普及も進んだ。世界に開けた日本サッカーに、いよいよ広い視野が必要なときに、昭和47年(1972年)10月16日、大きな蓄積を持ったまま、博識の先人は去った。盛大な社葬の後、関西のサッカー協会主催の「治太はんを偲ぶ会」がうつぼのスポーツマンクラブで催された。会の発案者は川本泰三・関西協会理事長、ベルリン・オリンピックの後、チューリヒでの試合で足首を骨折し、彼もまた治太はんの背で運ばれた一人だった。


田辺五兵衛・略歴
明治41年(1908年)3月18日、田辺屋(13代)五兵衛の長男として生まれ、治太郎と名乗る。
昭和5年(1930年)第9回極東大会日本代表役員。
昭和8年(1933年)(株)田辺五兵衛商店取締役就任。
昭和9年(1934年)大阪商科大学(現・大阪市立大学)卒業。第10回極東大会(マニラ)選手団役員。
昭和11年(1936年)ベルリン・オリンピック選手団随行員。
昭和16年(1941年)父・13代田辺五兵衛死去により、14代五兵衛を襲名。社長に就任。
昭和18年(1943年)会社名を田辺製薬(株)に。
昭和21年(1946年)日本蹴球協会副会長。
昭和25年(1950年)第3回全日本実業団選手権大会に田辺製薬初優勝。以後、昭和30年(1955年)まで6連続優勝。
昭和34年(1959年)田辺製薬会長に就任。
昭和38年(1963年)兵庫サッカー友の会副会長。
昭和40年(1965年)神戸少年サッカースクール副校長。
昭和45年(1970年)社団法人神戸フットボールクラブ副会長。
昭和47年(1972年)10月16日、死去。64歳。法名、隆徳院真誉実聞教道居士


田辺製薬サッカー部の記録
■創部 昭和2年(1927年)

■全日本実業団選手権成績
 *優勝7回−昭和25年(1950年)・第3回大会から同30年(1955年)・第8回大会までと、同32年(1957年)・第10回大会
 *準優勝−第1回、第9回大会
 *3 位−第2回、第11回大会
 (注)全日本実業団選手権は日本リーグ設立(1965年)のため、第16回大会(1964年)で終わる。
■国体
 *優勝−昭和27年(1952年)・第7回大会(宮城)

■天皇杯
 *準優勝−昭和35年(1980年)度


★SOCCER COLUMN

烏球亭縁起
 協会機関誌に書きためメモを寄稿することになって、なんとか題をつけろとの話なので、いろいろ考えてみたが、協会旗印である球を押さえている三本足の烏にかけて烏球亭雑話とすることにした。この烏球という言葉は、本来、大阪商大サッカー部の部報「烏球」(またの読み方を「ぬばたま」ともいう)にもゆらいするのである。当時、商大が天王寺区烏ヶ辻の岡の上にあって、烏ヶ丘といいならわしたので、部報を烏球と名付けたものである。(『烏球亭雑話』の巻頭)
 ご本人は「烏球亭」を気に入っていたようで、あるときハイヤーのサインを見せて、「これは、烏球亭のU・Qを取っているんやけど、誰もわからへん」とニヤリとした。

デットマール・クラマーの称賛
 FWの右ウイングの鴇田のインナー(攻撃的MF、今のプレーメーカー)の賀川は、田辺製薬のチームでコンビを組み、実業団の優勝だけでなく日本代表の右サイドの攻撃にも特色を発揮した。
 俊足のドリブラーであった鴇田と3歳年長の運動量の大きさとテクニックへの凝り性で知られる賀川とのコンビは、昭和28年(1953年)ごろから、双方の上達がかみ合って、そのパスとそれぞれの動きの、緩、急、長、短に見る者を引き込む楽しさと、決定的瞬間を生んだ。昭和35年(1960年)に代表強化のため来日したクラマーは、当時、38歳と35歳のペア・プレーを見て、「パスのやりとりは、あの2人のようにしなさい」と言った。


(月刊グラン2000年10月号 No.79)

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