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ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(中)

若いFWの育つ気配

 シドニー・オリンピックでの得点力不足のなかから、高原の積極性が少しずつ形になり、アジア・カップ(レバノン、10月12〜29日)での日本代表の得点力増加につながっています。シドニーはオーバーエイジで参加しなかった西澤とともに、日本の若いFWの能力が向上するのを見るのは楽しいことです。彼らはシュートだけでなく、キープやポストプレーにも自信を持ち始めたのが何よりです。もっとも、レバノン大会での得点には、森島という第2列目からのスペースへの飛び出しに抜群の感覚と、その前後の技術を持つ選手が大きく響いています。「シドニーへなぜ、森島を連れて行かないのか」とテレビでサンフレッチェ監督で、元オーストラリア代表監督、トムソンが語っていましたが、彼の速い飛び出しで、ゴールに近い攻撃要員が増えるため、こちらのパスの経路、攻撃の手口が多彩になるのが、2人のFWの活躍にもつながっているのです。
 さて、この連載も今回が9回目。前号に続いて、シュートの名人・川本泰三、1936年のベルリン・オリンピックで日本の1点目、つまり日本の歴史上、初めてオリンピックでのゴールを挙げたプレーヤー。前回はオリンピック・サッカーと日本のかかわりや、その1点目の得点シーンを回想しましたが、その「シュートのかたち」をどうしてつくり上げたかを振り返ります。


市岡中学でサッカーに出会う

 川本泰三は、大正3年(1914年)の1月、愛知県瀬戸市で生まれた。瀬戸の代表的な窯屋、川惣製陶所を設立した川本惣吉の次男であった父・健吾は大正10年(1921年)に大阪に移り、西区に「川惣電気商店」を開設し、送電線関係に欠くことのできない碍子(がいし)の販売を始めた。
 7歳から大阪で生活を始めながら、泰三には関西弁、大阪弁の癖がほとんどないのは瀬戸生まれの父と、岐阜県の窯屋の長女であった母・あき、両親の影響だろうか。
 大正15年(1926年)に市岡中学に入り、ここでサッカーに出合う。3年生の冬ごろからレギュラーになり、大阪の「常勝」明星商業に勝つようになって、4年生のときに、全国中学校蹴球選手権の阪和代表となり、南甲子園運動場での大会で、準々決勝の対函館は3−0で勝ち、準決勝で神戸一中に敗れた。
「4年生のとき、あこがれの甲子園に出場した(第12回だったか)大会では、神戸一中が群を抜いて強く、楽々と優勝したが、私たちの市岡中学は準決勝でここに負けた。スコアは1対0。当時、神戸一中には大谷一二、右近徳太郎など中学生にしてすでに名選手といわれる連中を相手に1対0は大善戦である。先輩たちは私たちを食堂に連れて行ってくれた。彼らがビールをあおって『お前らは、ようやった。市岡もこれで日本で2番目だ(神戸一中と一番僅差だったからだろう)』などとわめいている横で黙々と食べたカツ丼の味、懐かしい思い出である」とこの試合を回想している。

予科1年からレギュラー
 中学校の低学年のころは、ゴムマリ(軟式テニスのボール)を蹴ったり、リフティングしたりしていたという。ボールと遊ぶことは好きだった。レギュラーになっても、後にいわれるゴールゲッターではなかったが、ドリブルは得意だったらしい。
 早稲田に入ったのも、どうしてもというのではなく、大阪商科大学(現・大阪市大)を受験して、試験は通ったのに、発表を見に行った父・健吾が一杯やっていて、張り出した紙の息子の受験番号を見落としてしまったらしい。早稲田を受けて入学。
 サッカー部に入って、一番気に入ったのが東伏見のグラウンド。周囲の木立といい、全体の景観が自分にあってしまったらしい。
 朝から教室へ行かず、弁当を持ってグラウンドへ出かけ、一人でドリブルし、シュートすることを繰り返した。それが卒業するまで続くことになる。
 昭和6年(1931年)の早大は大正13年(1924年)の創部から7年を経ていた。前年の第9回極東大会には早大から総監督に鈴木重義、選手に杉村、本田、井手と送り込み、すでに実力は認められていたが、大学リーグでは優勝決定のプレーオフで東大に敗れ2位にとどまっていた。
 その大学のチームの秋のリーグ戦のレギュラーに、高等学院の新人・川本が起用された。痩せて、見た目には貧弱な体つき、早稲田型のファイトが表に出るタイプではなかったから、初めのうち不信あるいは不審の目で見ていた上級生たちだが、試合を重ねるごとに一目置くようになる。
 この年は慶応と東大に敗れて3位。次の昭和7年(1932年)は東大の力が落ち、4勝1分けの早大と慶応が優勝決定戦を行ない、早大は2−5で敗れ、関東のナンバーワンになるのは昭和8年(1933年)予科3年になってから。
 以来、昭和11年(1936年)までの4年間、リーグのトップの座を守る。


個人練習とイマジネーション

 昭和8年の東西選抜対抗の全関東に予科2年生、19歳の川本が選ばれる。CFでなく右のインサイドだったが、関東の先制ゴールを奪い、3−2の勝利に貢献している。
 大学リーグでの2シーズンを経て、自分でもシュートに自身を持ち始めた。
 一人での練習にどれほどの効果があるのか──という疑問に、こう答える。「ドリブルというのは、サッカーの多くの技を組み合わせてできるもの。相手がどこにいて、ゴールがどこにあるのか──イマジネーションによってそれを想定し、どのように外して、どのシュートに持っていくか。ボールを動かし、ボールを転がしておれば、飽きることはないはずだ」
 自分一人の練習に付き合ってくれる友人がおれば、さらにいい。この人にも練習相手になってくれる仲間がいた。後々、非常に感謝しているとも言った。
 ヨーロッパでも伸び盛りのときの自分の技術練習、一人のトレーニングが選手の将来に大きな力となった例は多い。70年代のイングランドのスター、ケビン・キーガンはアプレンティス(練習生)のときに、スタンドの壁にボールをぶつけて、横へ動きながらのヘディングを練習したという。後にリバプールで長身のトシャックと小柄で敏捷な彼のヘディングはチームの得点源だった。
 80年代の西ドイツのスター、カール・ハインツ・ルムメニゲが、デットマール・クラマーについて2年間、練習のある日もない日も、毎日、個人技術のレッスンを繰り返したのは有名な話。
 川本泰三のころは、そうした外国の事例を知ることはなかったが、ただひたすらドリブルし、シュートをし、自分のイマジネーションを膨らませ、それに合わせて技を反復した。その結果がシュートとドリブルの自信となり、ベルリン・オリンピックの逆転劇のスタートの得点を生んだのだった。
「タックルの間合いに入って、取った、と思ったのに、自分の足の上をボールが通っていった」
「外されたときには、もうシュートの体勢に入っていた」
 東西対抗で、この人の盛期に対戦した先輩たちから、川本泰三の不思議さを聞くことは多かった。
 足首が柔らかくて強く、相手がタックルしてくる力をポイント、あるいはタイミングのずれで、弱めておいて、その足の上を抜いていく。ドッジッグ(すり抜ける)間合いが、日本のプレーヤーとすれば大きかった。それがまたベルリンのときに、独特のキープとなって生きたともいえる。
 自分で考え、技術を磨いた集積は、サッカーというチームのゲーム、あるいは会社や協会での仕事の進め方にも、独自の表現や考え方をした。その考え方は、ある時期の日本では驚きで迎えられた。だが、1956年のメルボルン・オリンピック出場や、1968年メキシコ・オリンピック得点王、釜本邦茂の成長を助けることにもなる。


川本泰三・ 略歴
大正3年(1914年)1月17日、愛知県瀬戸市に生まれる。
大正10年(1921年)父・健吾、母・あき、とともに大阪へ。
大正15年(1926年)大阪府立市岡中学校入学。
昭和5年(1930年)1月、第12回全国中等学校蹴球選手権大会(現・全国高校サッカー選手権)に出場、準決勝で敗退。
昭和6年(1931年)3月、市岡中学卒業、早稲田大学入学。高等学院(予科)1年から関東大学リーグに出場(3位)。
昭和7年(1932年)関東大学リーグでは早大は2位(1位は慶応大)。
昭和8年(1933年)2月、東西選抜対抗に全関東代表で出場(東軍3−2)。関東大学リーグで早大優勝。
昭和9年(1934年)5月、マニラでの第10回極東大会・日本代表(日本は1勝2敗)。関東大学リーグは早、慶両校の優勝。
昭和10年(1935年)7月、日本、満州国交歓試合の日本代表に早大が選ばれ、満州各地で試合(7戦6勝1分け)。関東大学リーグが早大が3年連続優勝。東西学生王座(大学1位対抗)も3年連続して勝つ。
昭和11年(1936年)8月、ベルリン・オリンピックに日本代表出場(対スウェーデン3−2、対イタリア0−8)。関東大学リーグ、4年連続優勝。東西学生王座も4連覇。
昭和12年(1937年)3月、早大を卒業。4月、同盟通信社(現・共同通信社)に入社。
昭和15年(1940年)6月、第1回東亜大会に日本代表出場。満州国(7−0)中国(6−0)フィリピン(1−0)に勝ち優勝。
昭和16年(1941年)2月、第10回東西選抜対抗。3月、第11回東西OB対抗に関西代表で出場。8月召集。
昭和20年(1945年)戦争終結。そのままシベリアで抑留生活。
昭和24年(1949年)12月、シベリアから帰還。
昭和25年(1950年)5月、川惣電気工業代表取締役に。
昭和26年(1951年)大阪サッカークラブを設立。5月、第31回天皇杯に出場し準優勝。
昭和27年(1952年)5月、大阪クラブが天皇杯準優勝。
昭和28年(1953年)5月、大阪クラブが天皇杯準優勝。
昭和29年(1954年)3月、ワールドカップ(スイス大会)アジア予選、日本代表、韓国に敗れる。5月、第2回アジア大会(マニラ)日本代表は1次リーグ敗退。
昭和31年(1956年)6月、メルボルン・オリンピック、代表コーチに。韓国を押さえ、本大会に出場(11月の本大会は1回戦敗退)。
昭和32年(1957年)日本サッカー協会常任理事。
昭和33年(1958年)第3回アジア大会・日本代表監督(1次リーグ敗退)。
昭和39年(1964年)10月、東京オリンピックでの5、6位決定戦(FIFA主催、大阪トーナメント)招致。
昭和50年(1975年)関西サッカー協会副会長。
昭和53年(1978年)関西サッカー協会会長。
昭和56年(1981年)病床に就く。
昭和60年(1985年)9月、死去。


★SOCCER COLUMN

祖父は瀬戸の窯の改良者
 川本家は天明(1780年代)のころ、初代・平三郎のときに陶業を始め、2代平三郎が文化年間(1815年ごろ)に磁器に転換した。明治8年(1875年)、川惣製陶所を設立した川本惣吉は4代平三郎の次男で、分家後も磁器の製法を極め、窯と焼成の研究や素地、特に白素地の研究などには大きな功績があり、また窯の改築にも熱心で業界に大きな実利をもたらした、という。
 シュートの名人の、凝り性で独創的なところは、この祖父からの贈り物かもしれない。

川釣りとヨハン・クライフ
 サッカーだけでなく、ゴルフもなかなかの腕前だったが、釣りの方がゴルフより年期は古い。もっぱら川釣りで、それもハスから入り、アマゴ、イワナと渓を歩くのを好んだ。
「川にも瀬があり、渕があり、落ち込みがあり、流れは必ずしも一定しない。サッカーでも速攻一点張りでは成り立たない。タメがあって速さが生きる」と緩、急を説いた。
 1974年のワールドカップ・西ドイツ大会でのヨハン・クライフを見た多くのサッカー好きは、彼のスピードに感嘆したが、「名人」はクライフの緩と急の落差の大きさが素晴らしいと言った。

早大サッカー部の創成期
 東京高等師範附属中学でサッカーをしていた鈴木重義が、早稲田高等学院に入ったのが活動のきっかけ。その前の大正9年(1920年)に高等学院の学友会にア式蹴球部が設けられ、部長先生も委員も決まっていたが、部員はおらず、大学でもサッカーはしていなかった。
 大正10年(1921年)には、後のポンポンさんと呼ばれる鈴木のほかに7人の経験者が入って、対外試合もできるようになり、同11年(1922年)1月の4校による専門学校リーグ結成にも参加した。大正11年にビルマ(現・ミャンマー)人のチョー・ディンのコーチを受けたのが効果的で、同12年(1923年)1月の第1回全国高等学校ア式蹴球大会で優勝、早稲田の名を高めた。
 この鈴木たちが、大正12年に大学を進み、同13年(1924年)9月17日に早大のア式蹴球部の設立が承認された。
 川本泰三の入学した昭和6年(1931年)は、この創成期から発展期に移るところ。関東大学サッカーリーグは、東大の黄金期(大正15〜昭和6年までの6連勝)の最後の年に当たっていた。


(月刊グラン2000年12月号 No.81)

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