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ワールドクラスの大物オスカーを迎えた日産

 ラモス、与那城を核にして力を伸ばした読売を日産が追いはじめた。1972年創部のこのチームは、76年に関東リーグ1位となって全国社会人大会に優勝。77年には日本リーグ2部入り。79年には1部で戦い、いったん2部へ落ちたあと、82年から再び1部。83年には2位となり、天皇杯に優勝した。1974年からチームを育て、金田、木村、水沼、柱谷幸一らの攻撃陣に特色を持っていたが、かつてフジタにいたマリーニョの加入が、これらを結び合わせる効果となった。
 80年代のブラジル効果は高校サッカーにも及んで、静岡の東海大一高はアデミール・サントスという留学生のスピードとテクニックで全国大会に名をあげた。海外からの選手を移入してのチーム作りに批判もあったが、伸び盛りの時期に違った技術、違った体格、異なる発想を持った外国人とともにプレーし、上達してゆくことは日本のプレーヤーにとっても、やってくるブラジル人の若者にとっても得るところは多い。単なる学校の宣伝看板でなく、少年の育成と、そのあとの交流まで考えて、東海大一高にならうところが増えたのも新しい傾向だった。
 84年のロス五輪からプロの参加が決まり、日本のスポーツ界にも変革が訪れ、アマチュアを揚げた体協の空気も変わる。その体協の傘下にあって、プロ化したくてもできなかった日本サッカー協会にも、“ライセンス・プレーヤー”という名のプロフェッショナルが認められるようになった。
 1986年、西ドイツのブンデスリーガにいた奥寺康彦が帰国し、古河でプロ登録。ついで日産の木村和司もプロになった。次の年には57人がプロとなる。彼らは企業の社員でないから、契約によっては高い報酬を得ることもできるが、1年で契約が切れ、失業することもある。それを、あえてプロに踏み切る若者が増えた。
 日本リーグは、企業チームにアマチュアとうい建前がなくなったために、外国人選手、ブラジル・プレーヤーの移入に大きな変化が起きた。「もともと」のアマを受け入れるのでなく、プロフェッショナルの現役プレーヤーをチームに雇うことができるようになった。かつてセルジオ越後を受け入れたとき、プロ選手の越後でなく、もとプロで、いまはアマチュアの越後という資格だった。
 晴れてプロとして獲れるのなら、有名で即戦力というだけでなく、チーム全員の模範となるプレーヤー、技術だけでなく、身体の面でも生活の面でもプロを志す者の目標となる選手ーをと考えたのが日産。1987年にワールドカップ2回出場の名CBオスカーという大物を迎えた。
 ジョゼ・オスカー・ベルナルディ、通称オスカーは1954年6月20日生まれ。1978年、82年の二度のワールドカップでブラジル代表のセンターバックを務めた。78年のアルゼンチン大会では、彼とアマラウとで組んだ中央の守りは、ケンペス、ルーケといったアルゼンチンの攻撃をはね返し、本大会7試合で失点は3。2次リーグでは得失点差から決勝へ進むことはできず、3位にとどまったが、この大会で唯一の無敗チームだった。1メートル85センチの身長で、味方のゴール前での空中戦に強いだけでなく、チャンスには相手ゴールをも脅かす。82年大会の1次リーグ、対スコットランド戦ではCKからヘディングシュートを決め、チームの2点目を記録している。この82年大会はテレ・サンターナ率いる黄金カルテットのチームだったが、GKが78年のレオン(現エスパルス監督)からペレスに代わって、DFとのコンビネーションがまずく、実力を持ちながら2次リーグで敗退した。
 両大会とも取材した私には、オスカーは目立つような動きをしないで、それでいて、いつも危険な場所にいるー神秘的なプレーヤーに見えた。
 守備戦術の大家で、天才マラドーナとともにワールドカップを制したビラルド監督(アルゼンチン)は、守りの基調を二人のセンターバックにあるとし、DFの攻撃参加についても「CBが安定しておれば、右のDFが、チャンスなら左のコーナーへ攻め込んでもいい」とまでいっている。
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