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ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(下)

シベリア抑留ののちに

 予科1年(17歳)からレギュラーとなり、大学3年の夏(22歳)にベルリン・オリンピックに出場し、帰国して秋の関東大学リーグは早稲田のキャプテンとして、4年連続優勝を果たした川本泰三は、昭和12年(1937年)に卒業すると、同盟通信社(現・共同通信社)に入る。
 最終学年のリーグは、神大出の木下勇、賀川太郎、阿江閑、早大出の岩谷俊夫、京大出の皆木忠夫などが集まり、昭和26年から3年間連続して天皇杯のファイナリストとなった。
 大学の学生にそのOBを加えて、慶応BRBや全関西学院のような「全○○大学」式のチームや企業チーム、いわば学校や、企業という組織体のチームとは全く別の、サッカーだけを共通項にした大阪クラブの活躍は異彩を放っていた。
 プレーの上でも、川本、賀川、岩谷を中心とするパスワークは、来日した香港チームが「緩急を心得た見事な短伝(ショートパスのこと)」と驚嘆したほどで、ゲーム展開の中での「ため」の大切さを、ともすればスピード一点張りになりやすい日本のサッカーに知らせていた。
 復活したシュートの名人は日本代表にも選ばれ、昭和29年(1954年)の日韓戦(ワールドカップ予選)や第2回アジア大会(マニラ)にも出場した。ときに40歳。
「若いときに身につけた技術は失っていなかったが、シベリア抑留を含む空白期間のため、身体能力は大幅に落ちていた──だから、プレーヤーとしてのこの時期は『蛇足』だった」といってもいるが──。


メルボルン五輪の成功と失敗

 昭和31年(1956年)のメルボルン・オリンピックのアジア予選で、日本は韓国と1勝1敗。得失点も同じで、第2試合の後の15分ハーフの延長も0−0。抽選で出場権を獲得したが、このとき竹腰茂丸監督の下で、実際に取り仕切ったのが、川本泰三コーチだった。戦中派の鴇田正憲、岩谷俊夫の2人だけを残して、大幅な若返りを図った成果だが、技術の劣性を若さと粘りで補い、韓国を押さえることはできたが、本大会ではそうもいかなかった。
 それは結局、若返った代表世代はボールテクニックの問題だった。大戦終了のころに成長期であったこの年代は、ボールも乏しく、食糧難のなかで十分な練習環境ではなかった。そしてまた、ハイレベルのボールの扱いのモデルに接する機会もなかった。
 メルボルン・オリンピック代表で最年長の鴇田選手(当時32歳)によると、対オーストラリア戦(0−2)の前日、練習の後で「名人」は、一人シュート練習をした。それも鴇田に低い(ひざよりも少し低いライナー)パスを出してもらってのシュートだった。この人の最も得意とする形の一つで、しきりにそれを繰り返した。万が一のときのために、コーチ兼選手の登録だったが、結局、試合に出なかったのは、自分が決めた「若返り」を通したかったのだろう。
 2年後、東京で開催された第3回アジア大会で、日本代表はグループリーグで敗退した。
 川本監督の技術力のアップ重視の姿勢は変わらず、選手の進歩の跡はあったが、実践には結びつかず、竹腰、川本のベルリン組は昭和35年(1960年)のローマ・オリンピック予選の敗戦で、代表監督から離れ、ドイツからクラマー・コーチを迎えて、昭和39年(1964年)の東京オリンピックに備えることになった。


個人能力アップへの意欲

 チーム力の強化は、まず個人技のアップから──いまなら、誰もが納得する正論を唱えた姿勢は、どん底時代から日本サッカーがはい上がり、繁栄へ向かって歩み出し始めても、変わることはなかった。
 その一つの表れが釜本邦茂の成長へのかかわり方だった。中学、高校時代から、藤田静夫会長をはじめ京都サッカー協会、関西サッカー人の期待が集まる「大器」の早稲田進学も、早稲田卒業のあと関西のヤンマー入りも「名人」の計らいだった。
 早稲田には独特の気風があり、工藤孝一監督は厳しいけれど、選手を型にはめようとはしなかった。そしてまた、当時、日本リーグ最下位のヤンマーであっても、彼が加わることでチーム力もアップして、釜本自身のためにもなること、さらにヤンマー入社1年後、短期であっても西ドイツ(当時)に単身で留学し、高いレベルのなかでプレーすることで、彼の向上を願ったのだった。この2ヶ月のドイツでの練習は、驚くほどの釜本のプレーを高め、メキシコ・オリンピックでの得点王、日本の銅メダル獲得にもつながったのだった。
 もちろん、釜本のヤンマー入りには、地盤沈下の関西サッカーの強化の狙いもあった。


大阪トーナメント開催

 東京オリンピックのときにFIFA主催の大阪トーナメントという公式の5、6位決定戦を開催したのも「名人」の関西復権案の一つだった。サッカーの1次リーグはローマ・オリンピックでもローマ市から遠く離れたところで行っている。ぜひ関西でも1次リーグをという案は拒否されたが、日本でのサッカー興隆という点をFIFAに訴え、当時の日本サッカー協会の市田左右一理事(渉外担当)の努力もあって、サー・スタンリー・ラウス会長の強い推進力が加わり、実現にこぎつけたのだった。2008年のオリンピック誘致を目指す大阪市の昔のスポーツ行政関係者のなかには、昭和39年に長居で、「オリンピック・サッカー」を行なったことを誇りにしている人もいる。
 準々決勝で敗れた4チームによる順位決定戦はオリンピックの名の下に、長居のこけら落としともなり、このときの収入「○百万円」は、関西協会の基金として残った。

 東京、メキシコと2度のオリンピックを経て、日本サッカーは上昇し、指導態勢も整い始めたが、こうした時期にも「名人」は常に個人技術のアップを論じた。
 自分の考えを伝えようと、自分でペンを執り、また雑誌の対談の連載に応じて、その時々のプレーを批評しながら、常に原点を指向した。
 ボールが上がるのはなぜか──の問いに、腰が引けている、上体がそっている、踏み足が遠い──などの意見がある。それに対し、「それもある。しかし、ボールに下から力を加えるから、上へ上がるのだ」と言う。そこから、じゃあ、そうすればシュートは上がらないかはその逆で「力を上から加えればよい」となる。

 会社の経営にも独自の発想が生きた。サッカーと同じように、それぞれの個性を生かす方式は、本人の人間的な魅力とともに発展の基礎となり、技術的にも新しい発想の製品が会社の業績を上げた。
 初めて、大阪クラブで「名人」とともにプレーした兄・賀川太郎は「あの人は自由な人だ」と言った。
 サッカーも会社も、いや、シベリア抑留時代の苦しみのなかにも、なにか──例えば、ツルハシを扱う仕事にも──打ち込む楽しみを見いだした自由人は、70歳を超え、いよいよ熟成の境に入るころ、病床に入り、昭和60年(1985年)9月に去った。
 この人の残した含蓄ある言葉の一つひとつを思い出すたびに、いまの上手になった若い選手たちを見せ、この先人は彼らにどういう声をかけてくれるのかと思う。


★川本泰三語録

「選手はユメを見ろ」
 陸上競技の三段跳びの大先輩、織田幹雄(アムステルダム・オリンピック優勝)が、ある夜、ユメを見た。いままでやったこともないようなフォームで、自分が飛んでいるシーンだった。
 そんなフォームが実際にあるのだろうかと疑ったが、試してみた。そうしたら、そのフォームで日本記録がマークされたという。
 ボク自身はユメの体験がある。早大の予科2年目にひどいスランプになった。そんな調子なのに、そのときの東西選抜対抗の全関東のFWに選ばれた。予想では関西の方が上だったが、僕はそのとき東大の菊池君とFWのコンビを組んだ。そして、前の晩にユメを見た。菊池君と二人でパスをして攻め込んでいくユメだった。試合が始まると、ユメの通りになった。初出場の僕が3点入れて3−2で全関東が勝った。僕はそれ以来、二度とスランプを体験したことはなかった。
(徹底的に打ち込んで、スランプでも練習を続けていたからこそ、こうしたユメを見ることになる)

「鉄は熱いうちに鍛える」
 相当に、その「物」に打ち込まなければ、ユメに出てくるわけはない。僕はそのころ、朝から東伏見(早大グラウンド)へ、一日中通っていた。自分で壁に当たっている感じで、解決を見いだすこともできなかったが、それでも一日中ボールに触っていた。それも、僕にとっての子どもから大人への転換期、18〜19歳のとき、まさに鉄の真っ赤に焼けているときだ。
 年を取ってからでは、いくら鍛えてもダメなことが多い。この真っ赤になった時期を逃すなということだ。

「サッカーのやり方はいろいろ変わって、昔のスタンレー・マシューズのような本格的なウイングはいなくなったが、これからもタッチライン際のプレーは必要だろう」

「サッカーの個人技は複雑に、戦術は単純に」

「集団の練習では2時間やっても、一人がボールに触る時間は合計3分から5分くらいだろう。こんな短い時間で上手になるわけはない。これを10倍、30分に増やすことをコーチも選手も考えてほしい」


(月刊グラン2001年1月号 No.82)

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