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どのポジションもこなした“天才”右近徳太郎

 複数のポジションをこなせるのが現代のプレーヤーというが、60年前にFW、MF、FB、それも右サイド、左サイドを問わず、ビッグゲームでこなしていた選手がいた。1936年ベルリン・オリンピックの対スウェーデン戦でチームの2点目、2−2の同点ゴールを決めた逆転劇の殊勲者の一人、“天才”右近徳太郎がその人。


松丸貞一の称揚

「メレジェコフスキーの『神々の復活』を読むと、文芸復興の三人の天才の比較ができる。
 創造的でアポロのようなダビンチ、意表的で戦闘的なミケランジェロ、先駆者の心血を持ってあがなった珠玉のような技巧の秘密を、微笑のうちに盗み取ることのできる若き天才ラファエロ──。
 右近は、いつもラファエロを思い起こさせた──」(松丸貞一、右近徳太郎を懐かしんで、昭和26年8月26日)

 松丸貞一さん(故人・1909〜1997)は慶応義塾ソッカー(サッカー)部を日本の一つの大勢力に作りあげた、いわば慶応サッカーの主である。
 大正15年(1926年)に入学して、昭和7年(1932年)に卒業するまで、学内でも、サッカー界でも後発であった慶応ソッカー部を、関東大学リーグ優勝チームにまで引き上げ、卒業後は監督として、昭和12年(1937年)から15年(1940年)までの黄金時代をつくった。関東大学リーグ4年連続優勝、東西学生王座3回優勝、日本選手権(現・天皇杯)3回優勝、公式試合37試合34勝1分け2敗、総得点170、失点17の記録は、二宮洋一というずば抜けた破壊力を持つCFを得たこともあるが、チーム戦術、選手育成、クラブの団結の中核であった松丸監督の手腕なしで語ることはできない。
 その松丸監督は自分の仲間、あるいは後輩たちの技術や身体能力、戦術眼を鋭く観察、分析し、個性の組み合わせでソッカー部の運営とチームプレーを成功させた。私は、当時の中心プレーヤーたちの多くを先輩に持ち、彼らを見る松丸さんの目の確かさに驚くのだが、その監督がはばかることなく、“天才”と呼んだのが右近徳太郎──。


慶応とオットー・ネルツ

 神戸の御影に生まれ、大正9年(1920年)にサッカーの強かった御影師範の付属小学校に入って、当然のようにサッカーに親しむ徳太郎少年が3、4年生のころ、ビルマ(現・ミャンマー)人チョー・ディンが御影師範へやってきて、サッカーの“HOW TO PLAY”を指導していた。同じ小学校で1歳年長の大谷一二(昭和9年極東大会日本代表)は、実際にチョー・ディンが御影師範の選手たちを指導するのを、小学生の時に見ていたというから、徳太郎少年にも同じような経験はあったろう。
 大正15年に神戸一中に入学すると、これまた当然のごとく蹴球部に入る。すでに神戸一中も、チョー・ディンの洗礼を受け、画期的に技術向上の跡が見られるようになっていた。大正14年(1925年)には毎日新聞社の全国大会(現・高校選手権)をはじめ、四つの大会に優勝していた。そのときのメンバーの一人、豊田米吉が慶応に入って、松丸貞一とともにソッカー部のレベルアップに尽くす。
「大正15年に慶応に入学すると、すぐアソシエーション・フットボールクラブに入会した。同期に豊田、長坂がいた。ともにボールテクニックは本格派で、先輩選手より上手だった。長坂は府立五中の仲間だから、目新しくはなかったが、豊田のプレーは新鮮で大きな刺激だった。御影師範付属、神戸一中といわゆる黄金コース、よい環境のなかで少年のころから染み込んだカンと技術、一中の伝統に磨き上げられた洗練さがあり、インステップ・キックのフォームの美しさ、球の速さ、パスやトラッピングのタイミングの良さなど…。要するに、野育ちの僕には驚きだった」と松丸は言う。
 そして、彼らは2部で優勝し、昭和2年(1927年)から関東大学リーグの1部で戦うことになる。
 ほとんどが予科のメンバーで、大学リーグのトップを争うために、キャプテン浜田論吉は、ドイツのオットー・ネルツ(OTTO NERZ)の「フスバル(FUSBALL)」の叢書(そうしょ)8冊を手に入れ、これを指針にしようと、ドイツ語と格闘し、短時間のうちに完訳を作りあげる。神戸一中出身ながら、中学時代にプレーの経験のなかった浜田だが、このネルツとの取り組みで、ひとかどの理論指導者となり、その訳文を部員は筆記し、回覧し、議論し、実際の練習に組み込んでいった。


サッカー早慶時代の花

 自力学習で向上する慶応に右近が加わったのは昭和6年(1931年)。その前年に日本サッカーは極東大会で中国と引き分けるまでに成長し、東京のメディアでも関心を持たれるようになっていた。
 昭和7年の関東大学リーグで慶応と早大はともに4勝1分けで、勝ち点9。そのころは得失点差の計算はなく、再試合を行ない、5−2で慶応が勝ってタイトルを握った。
 大正14年から昭和6年までの東大の6連勝を阻むとともに、サッカーの早慶時代の到来を告げたが、予科1年のときにFWだった右近をHB(MF)に配置したのが成功したという。神戸一中で全国優勝のときに右ウイングだったが、このころから、活動量の豊富さを買われてMFを務めるようになる。
 昭和8年(1933年)は早大がリーグ優勝、そして次の昭和9年(1934年)歴史に残る激戦が演じられた。4勝同士の早、慶は12月1日に対戦して3−3の引き分けで、プレーオフを12月8日に再び神宮競技場で行なったが、早大のリードを慶応が追う壮絶なシーソーゲームとなり、最後は7−7。またまた引き分けに終わり、両校が優勝、東西学生王座決定戦への出場権は慶応が早大に譲った。
 この2試合は、実力が上の早大に対し、慶応は自陣ペナルティエリア付近での徹底的な防御をし、攻撃のチャンスにもDF陣はフォローしない──との戦略で臨んだ。そして、奪われただけのゴールを取り返し、引き分けとした成功の鍵はLI(左インサイド=現在の攻撃的MF)の右近にあった。
「右近は慶応の独立攻撃隊のゲームメーカーとして、自陣から中盤にかけて広範囲を遊よくし、球をかき集めて、切れやすい攻防両線のじん帯となったばかりでなく、機を見て得点者としての機能をも精力的に、しかも心憎いまで巧妙に発揮した。彼は2試合とも後半に何度か倒れた。第2戦の7−5の後に起こった奇跡的な数回の爆発的反撃に参加し、自ら最後の7点目を頭で叩き込んで倒れた。スタミナの極限まで出し尽くしたであろう。それは見るものをして、身震いを感ぜしめるほどのすごみを漂わせていた。僕のほほは引きつり、危うく泣くのをこらえた」。松丸監督はこう回想している。
 このとき右近は21歳。先輩たちが反復し、苦労して身につけたボールテクニックを、ごく簡単にやってのける天性の能力と、柔らかくて強い体と試合の流れをつかむカンは、誰もが驚くほどになっていた。
 新しいポジションを与えられると、ときには反発することもあったが、実際にプレーすれば、誰よりも優秀だった。相手のパスの予測、自分の位置取り、パスのカット、自ら出すパスの角度、強度、高度の適切なこと、そしてこうした才能を発揮するのに、自ら決意したときの、ものすごい労働力──。
 2年後の夏、ベルリン・オリンピックの対スウェーデン戦で右近は、RI(右インサイド)として、見方の守備のために働き、攻撃にはトップラインまでフォローする役割を担って、見事にそれを果たす。
「日頃は敵なのに、東西対抗や日本代表で同じチームになると、いつも僕がほしいと思うときに右近はパスを出してくれた」とは同年輩の代表CF川本泰三(早大)。
 ベルリンの翌年、大学を出て、神戸に戻った右近は、神戸クラブや東西対抗の西軍、あるいは日本代表などでプレーを続け、神戸一中の後輩たちの練習にも顔を出した。
 全国大会の試合の後で、中学生の足を自らマッサージをしてくれる優しい先輩でもあった。
 不幸にも、この希有な才能を私たちは南東太平洋のブーゲンビル島の戦場で、失ってしまう。しかし、その盛期のプレーに受けた感銘は消えることはない。
 戦後の長い日本サッカーの低迷期に、メディアのなかには、日本人はサッカーに向いていないのではないか──というものもいた。そうしたなかで、私が日本サッカーをあきらめなかったのは、右近徳太郎を見たからだといえる。


右近徳太郎・略歴
大正2年(1913年)兵庫県武庫郡住吉村室ノ内(現・神戸市東灘区御影)に生まれる。
大正15年(1926年)神戸一中(現・神戸高校)入学。
昭和5年(1930年)1月、4年生のとき全国中等学校選手権大会に優勝。
昭和6年(1931年)4月、慶応大学に入学、予科1年生から関東大学リーグにFWで出場。
昭和7年(1932年)予科2年のとき関東大学リーグ優勝。HB(現在のMF)で東西学生王座決定戦に出場、優勝。
昭和8年(1933年)関東大学リーグ3位。
昭和9年(1934年)5月、第10回極東大会(マニラ)日本代表。
            関東大学リーグで、早大とともに4勝1分け、プレーオフも引き分けで両校優勝。昭和10年(1935年)関東大学リーグ4位。明治神宮大会で準優勝。
昭和11年(1936年)ベルリン・オリンピック日本代表。関東大学リーグ2位。
昭和12年(1937年)慶応大学卒業。明治鉱業(株)大阪支社勤務。
昭和15年(1940年)東亜大会日本代表(FB)。
昭和17年(1942年)召集。
昭和19年(1944年)ブーゲンビル島で戦死。


★SOCCER COLUMN

慶応義塾体育会ソッカー部の創成期
 創立は大正10年(1921年)、初めはブルーサッカー倶楽部と称し、後に慶応アソシエーション・フットボールクラブと改称。昭和2年(1927年)夏、「ソッカー部」の名称で大学公認の体育会の部となる。当時は聞き慣れないサッカー(ソッカー)としたのは、日本ラグビーの始祖で明治32年(1899年)以来の伝統を誇るこの学校のラグビー部が「慶応義塾蹴球部」を名乗っていて、それに紛らわしい「ア式蹴球部」の名称は使わせてもらえず、初代主将・浜田論吉が「ソッカー(SOCCER)」にしたもの。
 大正12年(1923年)創設の「ア式蹴球東京コレッジリーグ」(現・関東大学リーグ)に加盟し、初年度は1部6チーム中の5位。2年目は2部で優勝。次の4年目、昭和2年には再び1部に復帰して2位(優勝は東大=2年連続)となり、以来、日本学生サッカー界のトップチームとなる。

右近徳太郎から後輩の中学生への便り
 近頃のプレーの一般的傾向として、コンビネーションに留意するあまり、各自が個々のプレーに対して執着心と細心の注意が欠けているように思う。神戸一中の試合を見ても、チーム全体が弱々しい感じがするのもこの故でしょう。もっと自分のプレーに忠実であり、わがままであってほしい。
 今でも休み時間に小さなゴムマリを蹴っているでしょうか。あれこそ神戸一中の人が他に優れたフットワークを有していた大きな原因の一つと思う。練習のとき、小さなボールでやってみるのもよい方法です。
 できるだけ多くボールに戯れること。足の甲で球をつくとか、二人で地面に落とさず小さく蹴り合うとか、片足のアウトサイドだけで、またインサイドのみで、小さな円を描いてドリブルするとか、方法はどうでも、自分で考えてボールに触れて遊ぶこと。ボールに慣れるより、ボールを慣らすことを心がけてください(昭和12年5月)。


(月刊グラン2001年2月号 No.83)

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