賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >デットマール・クラマー(上)

デットマール・クラマー(上)

 日本サッカーが現在の“かたち”になるまでの長い年月のなかで、そのときどきに、あるいは、その後の時代に影響を及ぼし“いま”につなげた人たちを紹介しているこの連載では、これまで、ベルリン・オリンピック(1936年)の前後に選手であった人たちの足跡を追いました。この明治末期、大正生まれの先達と同年輩で、みなさんに知っておいてほしい人たちもまだまだ多いのですが、今回は少し時間を進めて、デットマール・クラマーに移ります。1925年、日本流にいえば大正14年生まれのドイツ人コーチ、東京オリンピックからメキシコ・オリンピックへの日本サッカーの大変革にかかわるとともに、世界70ヶ国を指導して回り、75歳を超えた今も、現役の最年長コーチとして教え続けている“鉄人”です。


どん底の日本サッカーへ

 デットマール・クラマーが来日したのは1960年(昭和35年)10月29日が最初。4年後に東京オリンピックを控えながら、どん底の状態にある日本サッカーの強化策の目玉、“初の外国人プロコーチ”の招聘だった。
 大戦前の1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックで、強豪・スウェーデンを破って世界を驚かせるまでになった日本サッカーだが、1941年(昭和16年)からの太平洋戦争と、敗戦後の経済苦境というスポーツ環境の悪化のために、1950年代になっても、実力アップには遠かった。
 1956年(昭和31年)のメルボルン・オリンピックには、大幅な若返り策を採ったのが成功して、強敵・韓国を「勢い」で押さえて予選を突破し、本大会に進んだが、1回戦で開催国・オーストラリアに敗れた。
 その2年後、東京で行なわれた第3回アジア大会では、1次リーグでフィリピンと香港に敗れてしまった。そしてまた、1959年(昭和34年)12月に東京で行われたローマ・オリンピックの予選も、第1戦は0−2で完敗、第2戦は雨の泥んこのグラウンドで1−0で勝ったが、得失点差でまたも韓国に屈した。この試合の後、韓国の金容植監督とのインタビューで、韓国は日本に対して体力の優位で勝つよりも、技術力アップをはかることに方針が変わっていてそのため、雨中の第2戦でキック・アンド・ラッシュ戦法を採らなかったと聞かされた。
 この1959年4月にマレーシアで第1回アジア・ユース大会が開催され、日本は高校選抜チームを送った。杉山隆一や宮本輝紀などのチームが3位となったのが、唯一の朗報だった。
 東京オリンピックでは開催国として、予選なしで本大会に出場できる。しかし、開催国として国民の目の前で、アジア大会の二の舞を演じれば、それこそ日本サッカーは立ち上がれなくなるだろう。存亡の危機、代表チームの強化は日本サッカー協会の至上命題だった。

 プロフェッショナルのコーチとはどんなものか、世界にどのような人物がいるのか──。
 西ドイツ協会の好意を頼りに、デュイスブルグのスポーツ・シューレ(スポーツ学校)に足を運んだ野津譲会長は、西部地区の主任コーチであるデットマール・クラマーに会い、その哲学と見識に惚れ込む。1960年夏、ソ連・欧州での武者修行という破天荒な長期遠征に出かけた日本代表候補チームもまた、デュイスブルグで彼に会った。


英語を学び、手本を示し

 ベルリン育ちで、11歳のとき、1936年のベルリン・オリンピックでの日本の逆転劇を知って興奮した経験を持つクラマーは、野津会長の情熱と、技術は低いが学ぼうとする日本選手たちに、極東行きを決意した。
 最初の年は12月いっぱいまでの50日間、2年目の1961年(昭和36年)は5月から約1年、3年目は10月のプレ・オリンピックの前後、20日間だけだったが、1964年(昭和39年)は4月から6ヶ月間と、日本べったりの4年間といえた。
 やってきてすぐ手をつけたのは、基礎技術の上達をはかること。協会のこれまでの指導の考え方とは大きな違いはないが、まず自分で手本を見せて、この通りやれという。
 やれなければ、できるまで練習しよう。
 この姿勢は変わることなく、繰り返された。1960年11月に韓国とのワールドカップ(62年チリ大会)予選が予定されていた。これまでと違って、ソウルへ日本チームが行けるようになっていた。そのソウルでの第1戦は11月6日。スコアは1−2だった。クラマーは「点差は少ないが、力はプロとアマほどの違いがある」と明言した。半年後の第2戦までに、その差をどこまで縮めるか──。
 2ヶ月のクラマー旋風は、選手たちにやる気を起こさせる一方、彼の語る内容は、自分たちが日頃口にしているのと同じじゃないか、というOBたちもいた。初来日のときの彼の説明はドイツ語だったが、やがて彼は日本人は英語なら、通訳なしでも通じることが多いと考える。
 翌年の5月に再来日したクラマーは、前年より英語が上達していた。ドイツへ帰ってから勉強し直したのだった。

「私のハシの使い方が上手になるのと選手のテクニックが上がるのと、どちらが早いか」──選手と同じ日本式旅館での合宿は、ハシを使って食事をした。

 しかし、結果はすぐに出ない。1961年6月11日、国立競技場での韓国戦、ワールドカップ予選の第2戦も0−2で完敗した。
 確かに、これまでより日本チームはキープできるようになっていた。しかし、厚く厳しく守る韓国のゴールは奪えず、崔貞敏のカウンターを抑えることはできなかった。
 試合の後、陣中見舞いのケーキを持って宿舎を訪ねた私を見て、クラマーはこういった。「おお、トゥルー・フレンドが来た。ドイツでも勝てばいっぱい役員たちが来るが、負ければ誰も来ない。こういうときに来てくれるのが真の友だ」──彼の名言の一つに入っているが、このときは、成果のでない彼に向けられた冷ややかな目を意識しながらの日々だった。


デュイスブルグでの成果と個人指導

 8月から9月にかけてのマレーシアと欧州への行脚、欧州では転戦形式でなく、デュイスブルグに滞在してバスで日帰りの試合に出かけ、その反省の上に立っての練習というやり方を採った。良質の芝生の上でみっちりと反復することで、個人のテクニックも技術も上がっていくのが、選手自身にも分かったという。クラマーの頼みで1954年(昭和29年)ワールドカップ(スイス大会)優勝時のキャプテン、フリッツ・ウォルターが練習に参加してくれたのもこの年。ワールドクラスのロングパスを受けようと、若いFWは喜々として走った。
 個人指導にも熱が入った。杉山隆一の俊足を生かすために、彼がボールを迎えに戻り、一運動で前を向くトラッピングをも、繰り返し教えていた。
 ある選手の“いま”という時期をつかんで、特別練習して、上達を早める能力は非凡だった。
 代表チームの強化だけでなく、時間を割いて地方で講習会を開き、正しい基礎技術の教え方やポイントを説き、実際にやって見せた。彼が示す手本、例えばペンデル(ボールを釣り下げた器具)でのヘディングなどでも、安定したフォームと額でたたかれたボールのスピードに多くの指導者は驚かされた。
 自分と同じことをいっても、英語なら選手は聞こうとする──などといっていた人たちも、指導とは選手に理解させるだけでなく、選手をその気にさせ、上手にしてしまうことだ──と気づく。
 同じ言葉を飽きることなく繰り返すクラマーは、1年半で日本の各層のサッカー人の心に食い込んでいった。


デットマール・クラマー(Dettmar Cramer)略歴
★1925年4月4日、ドイツ・ドルトムント生まれ。

★ゲルマニア・ウイスバーデン、ヴィクトリア・ドルトムント、トイトニア・リップンシュタット、VfLゲーセケ、FCパデルボルンなどのクラブでプレー。

★ケガで選手生活をやめ、コーチとなり、1949年からドイツ協会西部地区主任コーチ。64年からドイツ協会のナショナル・コーチ、67年から74年までFIFA(国際サッカー連盟)のコーチとなる。

★この間、1960年から64年まで日本代表を指導、FIFAコーチとなってからもアドバイスを続け、64年東京オリンピックでのベスト8進出。68年メキシコ・オリンピック銅メダル獲得の大きな力となる。

★日本での第1回FIFAコーチング・スクール(1969年)を成功させた後、アメリカ代表監督を経て、ドイツの名門、バイエルン・ミュンヘンの監督(75年1月16日〜77年11月30日)となり、欧州チャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)2連覇。

★アイントライト・フランクフルト(77年12月9日〜78年)ジッダ(サウジアラビア、78年〜81年12月)、アリス・サロニキ(ギリシャ、81年12月〜82年5月)バイヤー・レバークーゼン(82年〜85年)などの監督をも務めた。

★FIFA派遣の指導者として、世界70カ国でコーチし、トップ・プロから少年まで幅広い指導力には定評があり、75歳の現在も、中国足球学校で、指導者の研修に当たっている。


★CRAMER MEMO

名言の数々

「ボールコントロールは、次の部屋に入る鍵だ。この鍵さえあれば、サッカーというゲームは、何でもできる」

「タイムアップの笛は、次の試合へのキックオフの笛だ」

「よい準備がなければ、よい試合はできない」

「サッカーの上達に近道はない。不断の努力だけである」


壁にかけられた言葉
 「Es ist der Geist, der sieht.
  Es ist der Geist, der hort.
  Das Auge an sich ist blind.
  Das Ohr an sich ist taub.」

 「物を見るのは精神であり
  物を聞くのは精神である
  眼そのものは盲目であり
  耳それ自体は聞こえない」

 これは、1960年、クラマーがドイツの西部地区主任コーチをしていたとき、彼の管理下にあるデュイスブルグのスポーツ・シューレ(スポーツ学校)の壁面に掲げられていた言葉。
 ギリシャの哲学者の言葉をドイツ語訳したものだが、訪れた日本サッカー協会の野津会長がこれを見て、こういう哲学を持つコーチを日本に招きたいと考えた。


誕生日に首相がお祝いのレター
 2000年(平成12年)4月、クラマーは中国の泰皇島市にある中国足球学校で75歳の誕生日を迎えたが、ひとりで世界を飛び回り、サッカー指導を続ける彼の下へ、ドイツのシュレーダー首相から手紙が届いた。クラマーのサッカー伝導の功績をドイツの誇りであるとたたえた。75歳の誕生日を祝うものだった。
 ドイツサッカー協会(DFB)は、ドイツ代表チームのユニフォーム、白シャツに彼の年齢の75を背番号に付けてプレゼントしてきた。
 DFBの心遣いもさすがだといえるが、首相が老コーチへ、お祝いの手紙を送るところに、ドイツ人のサッカーへの思い入れと、政治家のスポーツへの姿勢が見て取れる。


(月刊グラン2001年3月号 No.84)

↑ このページの先頭に戻る