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デットマール・クラマー(中)

土台づくりに時間はかかったが…

 デットマール・クラマー──1960年代から70年代の日本のサッカーに大きな影響を与えたドイツ人コーチについて、前回は東京オリンピック(64年)の日本代表強化のために来日したいきさつと、60年からの2年間について紹介した。
 代表選手の練習に、25メートル離れた円形へボールを落とすといった初歩に帰った指導は、ときに反発を招くこともあったが、彼自身が示すモデルプレーと独特の話術は、まず選手たちを信奉者にし、各地へ出かけての講習会で、各チームの指導者の心をもつかんでいった。
 ただし、こうした基礎からの積み上げは時間がかかる。61年のムルデカ大会(マレーシア独立記念大会)ではA組で1勝3敗、62年の第4回アジア大会(ジャカルタ)でもB組3位(1勝2敗)でともに1次リーグで敗退している。個人のわずかな成長がチームの飛躍にまだつながらなかった。
 あるとき、クラマーは私にこんな話をした。
「代表に復帰するようキミの兄さんを説得してもらえないか」と、40歳近くになった兄・太郎のプレーを何度か見て、現役のプレーヤーが彼と一緒に試合をし、練習することで学ぶことができると言った。
「すでに兄は会社でも責任のあるプロジェクトにかかわっていて、時間的に無理である」との私の説明に、結局この案を撤回したが…。
 56年のメルボルン・オリンピックの1年半前に、大幅な若返りのために、30歳以上を代表から除外したことを説明すると、「チームというのは、一方の出口から出ていく者があれば、一方の入り口から入ってくる者もある」──世代の交代は一度に行なうものではないと言い、ここに日本サッカーの技術の伝承のない原因があったのか、とも言った。
 西ドイツのようにスポーツ環境の整った国──なにしろデュイスブルグのスポーツ学校は20年代からある──の協会のコーチを務めてきたクラマーにとって、代表選手の練習が東大のグラウンドということも理解しがたいことだったろう。しばらくして、千葉県・検見川の東大グラウンドが整備され、これが上達への大きなプラスになるのだが…。
 周囲が代表の成績が上がらないのにジリジリしていても(彼にもいら立ちはあったろうが)、基礎に重点を置くやり方は変えなかった。ただし、その説くところは常に同じでも、その時々の機知のある話術は、選手だけでなく少年プレーヤーやその指導者、さらにはジャーナリストも引きつけていった。
 ある国際試合の前日、私がミーティングルームに顔を出すと、戦術の説明をしていた。「作戦会議だったら、僕は聞かない方がいいだろう」と、退出しようとすると、彼は手で制して「ミスター・カガワは聞いた日本の秘策を漏らす人ではない。しかし、写真だけは正直だから」と黒板の配置図を消して、デタラメの背番号とフォーメーションを書いてみせた。
「これを写し新聞に載せてくれれば、相手はまごつくだろう」──試合前の硬い空気が、皆の爆笑でほぐれたものだ。


40年世代の台頭 63年に西ドイツに勝つ

 1962年の12月から日本代表チームの監督は、高橋英辰から長沼健に代わり、新しいコーチにドイツでコーチ修行をした岡野俊一郎が加わった。
 クラマー、高橋の2人3脚による2年間の苦労がようやく、このころから花開き始めた。人材の上でも、59年からスタートしたアジア・ユース大会に、毎年、高校選抜が送り込まれ、そのころの日本ではどのスポーツにもなかった高校生チームの海外遠征が大きな刺激となって、このユース組から少しずつ代表へ若い力が上がってきた。
 宮本輝紀、杉山隆一、森孝慈、小城得達、松本育夫、釜本邦茂、横山謙三といった40〜44年生まれが、30年代後半の世代、渡辺正、川淵三郎、鎌田光夫、宮本征勝、保坂司らに割り込む気配となった。
 この40年世代は、高校あるいは高校卒業のころに、海外を経験し、クラマーの直接指導を受けたという点で、今のプロフェッショナル時代の77〜79年生まれ、中田英寿らのシドニー世代に通じるものがある。77〜79年組は若く、感受性の強い時期にJの誕生に出会い、いいモデルを見て、よいコーチの指導を受け、若いうちに先輩をしのぐ技術を身につけたのだが、40年前、この40年世代の台頭はまさに貴重品だった。
 62年12月、スウェーデン選抜チームとソ連のディナモ・モスクワを招いての三国対抗は、対スウェーデン戦はマークの失敗から点差が開いたが、ディナモとは好試合を演じ、63年8月のムルデカ大会では5チームリーグで2勝1分け1敗、得失点差で台湾に次いで2位となった。そして、この年の秋、オリンピックのリハーサルとして行った対南ベトナム戦に勝ち、西ドイツのアマチュア代表と引き分けただけでなく、その西ドイツとの京都・西京極での試合では4−2で快勝した。4ヶ月前にドイツで対戦したときは0−4の敗戦、1年前の9月、ブッパタール(西ドイツ)で1−7で大敗した同じ相手にである。
 もちろん、この試合は、西ドイツ代表を熟知しているクラマーの対応策もあったのだが、個人の基礎の進歩とともに、チームプレーの向上が目を見張るほどになっていた。釜本はこの年、まだ日本代表Bにいたが…。


東京五輪の1勝を足場に

 オリンピックの年を迎えて代表チームは1964年2〜3月にかけて、東南アジアへ出かけて13日間で6試合を行ない、4勝1分け1敗で帰ってきた。欠点も見えたが、東南アジアのチームとの対戦は、ボールキープで優位に立つというこれまでに考えられなかった展開になっていた。
 4月から3ヶ月間、検見川で長期のトレーニング、体力の練り上げと栄養、健康管理を続け、7月中旬から9月上旬までソ連、ヨーロッパの長期ツアーを行なった。
 12試合の相手はソ連の地域選抜あり、ハンガリー五輪代表、チェコスロバキア1部リーグ選抜ありで、格上も多く4勝2分け6敗だったが、最後に戦ったスイスの名門クラブ、グラスホッパーには4−0で完勝して地元のメディアを驚嘆させた。
 64年10月14日、東京オリンピック・サッカー1次リーグD組、日本は駒沢競技場でアルゼンチンと対戦し、前半は0−1とリードされたが、後半に杉山のドリブル突破からのシュートで同点(このゴールは、彼が59年第1回アジア・ユース大会の開幕戦で決めたのと同じ型のドリブルシュートだった)。
 ミスから再び1−2となった後、56分に釜本の左からのクロスを川淵がダイビングヘッドで再びタイにし、その1分後に小城が相手GKがパンチしたボールをシュートして3−2とした。アルゼンチンには、のちにW杯で活躍するペルフーモなど若手の上手な選手がいた。しかし、日本の動きは質、量とも勝っていた。
 グラウンドへ飛び出し、仲間と抱き合うチームメート、その輪の中にデットマール・クラマーもいた。
 残念ながら第2戦はガーナに敗れる。クラマーの計算では勝ってこの組の1位になれば、準決勝でアラブ連合と当たる。これに勝てばベスト8になれたのだが(すでにガーナはアルゼンチンと引き分けていた)──準決勝の相手はチェコスロバキア、0−4だった。
 5、6位決定戦の大阪トーナメントも、いきなりユーゴスラビアと当たって1−6。それでもメディアも世間も、サッカー王国アルゼンチンに勝ったことを高く評価した。
 しかし、クラマーは満足しなかった。彼の真価はここから後に発揮される。
 大会が終了し、彼が東京を去る前日のお別れパーティで日本サッカーへの提言を語ったのだ。

(1)日本代表は毎年1回、欧州遠征すること。
(2)良いコーチを育成することと、その組織づくり。
(3)トップリーグをつくること。
(4)芝のグラウンドを確保すること。


★CRAMER MEMO

 1964年、東京オリンピックは16チームを4組に分け、各グループ内の総当たりリーグを行ない、各組の上位2チームが準々決勝へ。ここからノックアウト・システムで決勝に勝ち上がることになっていた。

 ▽A組─ドイツ、イラン、メキシコ、ルーマニア
 ▽B組─ユーゴスラビア、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、ハンガリー、モロッコ
 ▽C組─チェコスロバキア、韓国、ブラジル、アラブ連合
 ▽D組─イタリア、日本、アルゼンチン、ガーナ

 このうちイタリアは、選手のアマチュア資格が問題となって参加を取りやめ、またGANEFO(新興国競技大会)参加問題で、一部の選手を出場資格を停止された北朝鮮が参加を取りやめて帰国したため、14ヶ国。B、D組は各3ヶ国となり、1次リーグの24試合は18に減少した。

 ▽準々決勝
 ・ドイツ 1−0 ユーゴスラビア
 ・チェコスロバキア 4−0 日本
 ・ハンガリー 2−0 ルーマニア
 ・アラブ連合 5−1 ガーナ

 ▽準決勝
 ・チェコスロバキア 2−1 ドイツ
 ・ハンガリー 6−0 アラブ連合

 ▽3位決定戦
 ・ドイツ 3−0 アラブ連合

 ▽決勝
 ・ハンガリー 2−1 チェコスロバキア

 なお、準々決勝の敗者による、5、6位決定戦は大阪トーナメントとして行なわれた。

 ▽1回戦
 ・ユーゴスラビア 6−1 日本
 ・ルーマニア 4−2 ガーナ

 ▽5、6位決定戦
 ・ルーマニア 3−0 ユーゴスラビア


(月刊グラン2001年4月号 No.85)

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