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普及と興隆の機関車となった偉大なドクター加藤正信(上)

 日本のサッカーが現在の“かたち”になるまでの長い年月の中で、そのときどきに大きな影響を及ぼし、“いま”につなげた人たちを紹介しているこの連載は、昭和5年(1930年)極東大会の日本代表チームの主将であった竹腰重丸に始まり、同年代の田辺五兵衛、昭和11年(1936年)のベルリンオリンピック代表FWの川本泰三、右近徳太郎と続いて、さらに昭和39年(1964年)の東京オリンピックのときに日本代表を指導するとともに、日本サッカー界の大変革をリードしたデットマール・クラマーについて語ってきました。
 今回はその“東京”以降の変革期に、民間にあって大きな推進力となった加藤正信──。サッカーの普及、興隆に生涯をかけたドクター、お医者さんの話です。


ワールドカップの球技専用スタジアム

 加藤正信ドクターはプロフィールにあるとおり、明治45年(1912年)生まれの、私のいう「ベルリン世代」の一人で、学生時代をサッカーに明け暮れ、旧制中学や旧制高校のときには全国優勝を経験したあと、大戦中は軍医として働き、戦後は開業医として市長の診療に当たりながら、少年サッカースクールや、だれでもボールを蹴れるクラブを創設し、ナイター設備と芝生のピッチを持つスタジアムを行政に働きかけ建設するなど、神戸と兵庫と日本サッカー興隆の先頭に立ったボランティア。
 今に残る、日本初の法人格、市民サッカークラブ「社団法人神戸フットボールクラブ(神戸FC)」もドクターの業績の一つだが、この11月に完成する神戸ウイングスタジアム──2002年ワールドカップのために神戸市が建設中の球技専用スタジアム──もこの人の“遺産”。
 和田岬にある御崎競技場を大改装するにあたって、行政関係者も市民も球技専用(トラックを併設しない)であることに疑いを持たなかったのは、御崎競技場そのものがドクターたちの「神戸に国際試合のできるサッカー専用スタジアムを」との署名運動によって生まれた専用球技場(サッカー、ラグビー)であったからだ。
 閉会式の屋根を備える予定の新球技場、神戸ウイングスタジアムもまた、加藤ドクターの情熱が生んだ日本と神戸の貴重な財産といえる。


ショートパス・チームのロングキッカー

 神戸に生まれ育ったドクターは、雲中小学校のころにサッカーに出会う。そのころ神戸では、もちろん一番盛んなスポーツは野球だが、サッカーが校技のようになっていた御影師範の卒業生が市内の小学校の先生に多かったために、いくつかの学校ではサッカーの校内大会を行うところもあり、たまにはほかの学校との試合もした。雲中小学校でドクターより12年後輩の私も、ここでボールを蹴るようになり、カナディアン・スクールという外国人の子どもの学校チームとの試合も覚えている。

 旧制の神戸一中では5年上(最上級生)になってからサッカー部(当時はア式蹴球部といった)に入る。小学生からボールなじみ、体格のよいドクターはその頑健さとキック力を買われてフルバック(FB)に。大正の末期から神戸一中は2歳年長の師範学校に対抗するため、短く正確につないで、スルーパスを使ってゴールチャンスを生む「ショートパス」を多用するスタイルになっていたが、この昭和4年(1929年)度のチームは大谷一二、右近徳太郎という俊足のドリブラーが両翼にいて、そのウイングプレーを生かすためにも、FBやハーフバック(HB)から逆サイドのウイングへの長いパスを送るようになっていた。山本主将とともに後陣を守る加藤選手からのロングパスは、ショートパス主流だけに効果があったらしい。
 昭和5年1月、甲子園南運動場で開催された第12回全国中等学校選手権で優勝。前年の11月の兵庫県予選で強敵・御影師範に勝っていたので、大会前から優勝候補の呼び声が高かった。
 ドクターによると「それまでも、いくつかの大会で優勝していたし、予選で御影師範に勝って、心のおごりがあって、本大会は1回戦、準々、準決勝といずれも1点差という苦戦の連続で、決勝の前日、先輩たちにカツを入れられて奮起し、広島師範を3−0で破った」という。
 このときの準決勝の相手、市岡中(大阪)には川本泰三(月刊グラン2000年11月号〜2001年1月号参照)がいた。0−1で神戸一中に負けて「神戸一中に0−1だから、お前たちは日本で2番目だ」と先輩たちは喜んだと回想している。


旧制インターハイの覇者

 神戸一中から岡山の第六高等学校(通称・六高)へ進む。京都の三高にしようか六高にしようか受験を迷ったとき、三高はサッカーをやっていないから(当時はラグビーの名門として有名)と岡山を選んだくらいだから、この旧制インターハイの名門では、どっぷりとサッカー漬けとなる。

 旧制高等学校──つまり戦前の帝国大学(国立大学)へ進む予備的な過程となる3年間は、規制の多かった旧制中学校の5年間を脱して、17、18歳から21歳までのいわば青春時代で、学校側も生徒を大人扱いにし、学校内は自由な空気に満ちていた。


六高とインターハイ

 六高のサッカーはキック・アンド・ラッシュ、つまり、ロングボールを蹴って突進するスタイルの多いインターハイのチームのなかではボールをキープし、パスをつなぐ近代的なプレーだったが、これは広島や兵庫といった当時のサッカー先進地域からの学生が多かったことにもよる。特に神戸一中からの入学者は、中学のときにサッカー部員でなくても、たいてい(軟式テニス用の)ゴムボールでサッカー遊びをしていた関係で、ボールテクニックも上手で、高校へ入ってからサッカー部でプレーし、立派な選手になった者が多い。
 旧制高校の3年間はそのころの大学予科と同じように17〜21歳の少年期から大人への移行期であり、この年代でしっかりとトレーニングを積むことが選手づくりにどれだけ役立つかを、私は六高をはじめてインターハイで活躍した選手の例を見て知っている。その練習法がたとえ現在ほど効果的ではなかったとしても、毎日自ら打ち込んでの練習の繰り返しで、中学の時は部員でなかった、いわば素人が見違えるように強く、速くなっているのに驚かされたものだ。
 旧制高校は学制改革で姿を消したが、サッカーのOBインターハイ(SOI)として昭和49年(1974年)以来、各校のOBによる交歓試合が続いているのは、それだけ一人ひとりの思い入れが強いのだろう。

 ドクターの六高での生活は、まさにサッカーそのものだった。昭和6年(1931年)には初優勝し、3年生であった昭和8年(1933年)にも2度目の優勝をした。ドクターが主将であったこのとき、準決勝で早稲田高等学院と対戦する。関東大学リーグ1部のレギュラーが半数いて、技術的にも一段上といわれていた早高に勝ったことは、長くインターハイの伝説となる。ただし、ドクターは当時の六高の闘志を高く買いながら、準決勝当日の会場、京都の岡崎公園グラウンドが雨のため、泥濘(でいねい)となったことが大きいとしている。グラウンドの良し悪しの影響の大きさを肌で知ったことが、30余年後に芝生のグラウンド建設に身を入れる伏線ともなったらしい。

 旧制高校を卒業すると、帝国大学へというのが当時の決まり。東京帝大(東大)のサッカー部から「ぜひうちへ」と勧誘されたが、「サッカーに夢中だったから、東大医学部の合格は無理と判断して、受験先は岡山医大にした」という。岡山におれば、後輩の面倒も見られるということもあったろう。

 岡山医大を卒業すると、陸軍の軍医将校となり、中国の野戦病院をへて、戦争終結のときには岡山陸軍病院にいた。多くの将兵の命を預かる軍医の仕事中は、さすがにサッカーへの時間はなかった。それでも、昭和15年(1940年)に私は雨の日の神戸一中の体育館での練習中に、軍服姿のドクターにあった。わずかの時間を見つけて、母校のサッカー部の練習を見にきたのだった。
 昭和30年(1955年)に神戸に戻り、開業医としての生活が始まると、そうしたサッカーへの思いが再び頭をもたげる。
 まず考えたのは、自分が育った母校、名を改め神戸高校がなぜ弱いのか、そして兵庫のサッカーを復活するのはどうすればよいのかから始まり、日本サッカーを盛んにするためには──と移っていく。
 中学時代の仲間、好敵手であった御影師範のOBたち、そして、後輩たちも招集して意見を聞き、議論をし、やがて自分の主張をまとめて発表した。発表するだけでなく、その実現に向かって動き出したのが昭和36年(1961年)ローマ・オリンピック予選に敗れた日本サッカーが低迷からはい上がろうとするときだった。


加藤正信(かとう・まさのぶ)略歴
明治45年(1912年)1月30日、神戸市兵庫区吉田新田に生まれる。
昭和5年(1930年)神戸一中卒業。
昭和8年(1933年)旧制第六高等学校卒業。
昭和12年(1937年)岡山医科大学卒業。
昭和13年(1938年)陸軍医中尉。
昭和15年(1940年)陸軍医大尉。
昭和16年(1941年)第百十師団軍医部員として中国へ。同臨時野戦病院長として香港へ。
昭和18年(1943年)熊本予備士官学校へ転任。陸軍医少佐となる。
昭和20年(1945年)岡山陸軍病院へ転属。同年11月、同病院を辞任し、岡山県勝田郡北和気村で開業。
昭和30年(1955年)神戸へ帰り、同市灘区上野通6丁目で開業。
昭和38年(1963年)兵庫サッカー友の会(幹事長・大橋真平)を結成(会員1007人)。第1回サッカー教室開催(中、高校生対象)。
昭和40年(1965年)友の会事業として「神戸少年サッカースクール」開設。校長・玉井操、教務部長・加藤正信、小学生14人、中学生48人。
昭和41年、神戸に芝生グラウンドをと建設期成運動を始める。
昭和44年(1969年)3月、神戸・御崎サッカー場(後に競技場)竣工。その照明を設計変更し、同年12月に日本で初の本格的照明が完成した。
昭和45年(1970年)兵庫サッカー友の会を「社団法人神戸フットボールクラブ(神戸FC)」に(会長・玉井操、事務局長・加藤正信)。日本初の法人格、市民スポーツクラブ誕生と注目された。
昭和46年(1971年)第1回ジュニア・サッカー・サマー・フェスティバル主催。日本サッカー協会50周年記念式典で神戸FCが受賞。
昭和49年(1974年)西日本OB連盟設立。
昭和51年(1976年)加藤正信宅の敷地に神戸FCのクラブハウスを建設。
昭和56年(1981年)社団法人神戸FCの設立10周年を機に、クラブの名誉副会長となり、実際の運営から退く。
平成2年(1990年)2月1日死去。


★SOCCER COLUMN

インターハイとサッカー
 いまでは、インターハイといえば全国高校総合体育大会のことをいう。
 インターハイはインター・ハイスクールの略。インター・カレッジ(大学対抗試合)から転じた和製英語らしい。サッカーの旧制インターハイは大正12年(1923年)に始まり、大戦中のブランクはあったが、昭和22年(1947年)まで続いた。高等学校だけの大会だが、第1回大会に早稲田高等学院(早大の予科)が加入して優勝して以来、ずっと参加を続けていた。
 バンカラ気風の高校生の大会らしく、闘志と激しいプレーが大会の魅力でもあったが、昭和初期の東大の黄金期はこのインターハイの創設と、この大会を目指して訓練を積んだ選手たちが東大に集まったことによる。第1回から22回(1923−1948年、うち3年は中止)の大会の優勝校を回数順に記すと六高(7回)広島(4回)早高(3回)松山、水戸、一高(各2回)武蔵、五高(各1回)となる。

帝国大学と旧制高等学校
*帝国大学
 旧制の国立総合大学のこと。
 明治19年(1886年)の帝国大学令によって、東京大学が東京帝国大学となり、次の年、京都帝国大学が設立された。以降、東北、九州、北海道、京城(現・韓国ソウル)台北(現・台湾台北)大阪、名古屋の各帝国大学が設けられた。大戦後、学制改革で新制の国立大学となった。

*旧制高等学校
 明治27年(1894年)、当時の高等中学校を改組したもので、程度の高い高等普通教育を行う男子の学校で、修業期間は3年。第一高等学校(通称・一高、東京)二高(仙台)三高(京都)四高(金沢)五高(熊本)六高(岡山)七高(鹿児島)八高(名古屋)のいわゆる官立(国立)のナンバースクールのほかに、それぞれの土地の名を冠した官立や私立の高校もあった。六高はスポーツが盛んで、柔道やサッカーが強いことで知られていた。


(月刊グラン2001年7月号 No.88)

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