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普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(中)

38年前、加藤正信の願い

「サッカー専門の芝生のグラウンドを全国至るところに作る」
「全国小学校の地域別サッカーリーグを始める」
「世界一流チームを毎年招待する」
「サッカー愛好者の総力を集結し得る体制を整える」
 日本サッカー協会(当時は蹴球協会)の機関誌『サッカー』(1963年10、11月号)に、「加藤正信の願い」という長文の投稿が掲載された。
 大戦中の陸軍の軍医から戦後は岡山県勝田郡北和気村で開業し、いわば無医村の診療所で内科も外科も産婦人科もと、多くの患者を診療し、八面六臂の働きだった。そんななかでも昭和21年(1946年)の復活インターハイ(旧制)で、母校の第六高等学校が京都での大会に出場したときには、当時の貴重品であった“おコメ”を持って駆けつけ、後輩たちの優勝をバックアップしている。
 昭和30年(1955年)に神戸に戻り、神戸高校のすぐ近くの灘区上野通6丁目で開業した。もともと加藤ドクターの育ったのは神戸市葺合区(現中央区)熊内橋通1丁目で、尊父もドクターだったが、近くに住んでいたわが家同様に、加藤家もまた大戦中の空襲のため消失していたのだった。
 神戸へ帰って、母校・神戸一中(現・神戸高校)の近くに住めば、体に住みついた「サッカーの虫」が動かぬはずはない。当時の神戸高校の高山忠雄校長は神戸一中23回生(大正11年卒業)で、昭和5年(1930年)の極東大会の日本代表。31回生(昭和5年卒業)の加藤ドクターにとっても8年上の先輩。
 その校長が自らカーキー・パンツをはいて、選手を指導し、国体や冬の全国高校選手権にも出場し、兵庫県ではトップ級と見られていたのだが、“優勝”できないのが加藤ドクターにはいささか不満だったらしい。
 なぜ神戸高校が戦前の神戸一中のように全国優勝できないのか──また、神戸高校だけでなく兵庫県のチームが日本一になれないのか──。
 神戸一中、神戸高校サッカー部が大正2年(1913年)創立から50周年を迎える昭和38年(1963年)に記念行事を催すこと、併せて部史『ボールを蹴って50年』を発刊することなどを企画し、その催しの準備のための再三の会合の中から、加藤ドクターはしばらく離れていたサッカー界の現状、神戸、兵庫の高校サッカー事情などを知ることになる。
 自分の後輩たちがなぜ勝てないのか、一つには全国的なサッカーの普及があり、レベルの平均化はあるけれど、かつてのように小学校の頃から小さなゴムボール(軟式テニス用のボール)で遊ぶ習慣がなくなっている。さらにはまた、戦後はプロ野球の大隆盛のために、体格がよく、スポーツの素質のあるものが、そちらへ向かっているといった社会情勢もある。
 気がつくと、黙っておれないのがドクターの性分。そこで、冒頭の機関誌の投稿、論陣を張ることになる。
 当時のすべてのサッカー人が同じ思いであったはずの、四つの願いを唱えるだけではなく実行するために、ドクターは2年後に兵庫サッカー友の会を結成する。


兵庫サッカー友の会の結成

 友の会という名は昭和37年(1962年)にスタートした京都サッカー友の会が先輩格。京都サッカー友の会は当時の京都サッカー協会の藤田静夫会長(現日本サッカー協会名誉顧問)を中心に、サッカー人の勢力を集め、京都と日本のサッカーをバックアップしようというもの。そのころ京都で日本代表の試合をすれば、数千の観客動員が見込めたのも“友の会”の力だった。
 加藤ドクターは、その例に倣いながら、兵庫として独自の方針を打ち出した。

(1)少年サッカーを育てる。
(2)誰でも入れるサッカークラブを作る。
(3)国際サッカーのできるグラウンドを作る。
(4)至るところに芝生の少年サッカー場を。
(5)サッカー王国・兵庫を再現する。

 この五つの綱領を掲げて、昭和38年12月29日に「兵庫サッカー友の会」がスタートした。その友の会の最初の仕事は年末の3日間のサッカー教室だった。
 主任コーチは岩谷俊夫。東京オリンピックの強化部員であり、代表監督の長沼健やコーチ・岡野俊一郎の兄貴分として、ベルリン組の竹腰重丸、川本泰三といった長老からも、クラマーからも信頼されていた彼はそれだけに多忙で、また毎日新聞社の記者で、実質上の正月の全国高校選手権(当時は毎日新聞主催)の運営者でもあった身で、年末の3日を指導にあてるのは非常に難しいことだった。しかし、加藤ドクターの推進力を支えようという彼の熱意の表れから、コーチを引き受けたのだった。
 実はこのころ、クラマーの来日によって、指導法がすべて新しくなったように感じられていて、ドクターの世代をはじめ、戦前、戦中の選手OBはたとえ技術が高くても、指導を買ってでるにもためらいがあった(サッカーの原理は変わらないのに)。戦前の技術を踏襲し、クラマーの指導をも熟知している岩谷俊夫という人材を後輩に持ったことは、ドクターがこの時期に少年サッカーへ足を踏み出すための大きな力となった。
 友の会の会長は玉井操。当時の関西サッカー協会会長、早大の学生時代にビルマ(現・ミャンマー)人チョー・ディンの全国コーチ行脚に付いて回った一人。副会長は田辺五兵衛(月刊グラン2000年8〜10月号参照)役員には御影師範OBの大橋真平、空野章、そして神戸一中26回生の北川貞義らが加わった。これら、かつての名選手たちは50歳を超えても、驚くほど頭が柔らかく、少年期からボールになじむことの必要性は自らの経験で知っていたので、クラブというその後に取り組む問題にも積極的だった。友の会はスタート時に1007人と予想以上の会員が集まり、OBチームを作って「京都サッカー友の会OB」との試合もし、また少年の交流試合もした。この少年への働きかけが、東京オリンピック後の「神戸少年サッカースクール」の誕生につながる。


日本サッカーリーグと少年サッカー

 昭和39年(1964年)10月の東京オリンピックで日本代表はアルゼンチンに勝ち、ガーナに敗れて1勝1敗でD組2位となって準々決勝に進み、ここでチェコに敗れ、大阪での5、6位決定戦でも1回戦で退いた。4戦1勝だったが、サッカー王国アルゼンチンに対する逆転勝ちは高く評価された。
 神戸でその祝いをしようと、ドクターの呼びかけで友の会の幹部が集まった。副会長の田辺五兵衛氏は「今度の1勝は、昭和5年の極東大会での対中国3−3の試合に匹敵する。それまでアジアで勝てないといわれたのが、中国と並ぶところまできて、この後のベルリン・オリンピックの好成績につながった。このアルゼンチン戦の勝利によってサッカーが盛り上がったいま、私たちは次の手を打たねばならない」とあいさつした。その次の手、私たちがやれることは何か──それぞれが意見を出し合った。
 先輩たちに交じって私は「いまの選手を見ていると、小学生のころからサッカーに親しんでいないので、ボールテクニックの上達が遅い。友の会としては少年への浸透をもっと進めることが大切でしょう」と言った。
 その翌日、ドクターから我が家に電話があった。「常設のサッカースクールをやろう。これまではその都度、短期の講習会をしていたが、定期的に子どもたちがサッカーのできるスクールを作ろう」と言ってきた。
 昭和40年(1965年)4月11日、神戸サッカースクールがスタートした。小学生14人、中学生48人と開設時はわずかな人数だったが、あっという間に増えた。
 やや遅れて日本サッカーリーグがスタートした。東京オリンピックの後やや虚脱状態にあったスポーツ界で、サッカーはプロ野球以外で初の全国リーグを立ちあげたのだった。
 これまでは天皇杯のように短期集中のトーナメントで、どうしてもノックアウト・システムになる。こうした大会とは別に、長期のリーグ戦によって、選手個々の力、チームの力を伸ばしていく方法を──とクラマーが希望したレベルアップへの“遺訓”を長沼、岡野を中心とする30歳代の若い世代が、企業チームによるリーグを始めたのだった。
 新しい動きに敏感なメディアはほかのスポーツより一足早く“東京以後”の手を打ったサッカーを大きく取り上げた。駒沢競技場での開幕試合に集まった観客は4500人、大阪でも2300人程度だったが、全国紙はスポーツ面でのトップ扱いだった。
 そして、神戸での“少年サッカースクール”もまた、大きなニュースとして伝わった。トップチームのレベルアップだけでなく、少年への浸透、いわば草の根への働きかけに、メディアも好感を持ってくれたようだった。
“常設”の少年サッカースクールといっても、どこかの学校のグラウンドを借り、月に2、3回、日曜日に行なうという程度だったが、京都でも大阪でも、そして全国にあっという間にこのスタイルのスクールが広まっていった。
 スクールは参加者の月謝で運営されるが、コーチはすべてボランティア。神戸の主任コーチはもちろん、岩谷俊夫が務めた。
 サッカー人気の上昇とともに、スクールの所帯も大きくなる。専従のコーチを置く必要が出始め、そこから法人格のクラブへの移行を考えるようになる。
 スクールの盛況だけで満足するドクターではない。友の会の網領にある国際試合のできるグラウンド運営のための市民運動を起こし始めていた。署名運動が市議会などに効果があると聞くと、すぐさま実行にかかり、3万人の署名を集めて、神戸市と市議会に陳情した。もともとスポーツの盛んな神戸で、また土木事業の得意な市当局は、和田岬の御崎にある競輪場の跡地にサッカー場を作ることになる。単なる球技場ではなく、“ナイターでもできるように”という希望も通る。
 設計図が出来上がってから、また照明機の位置を変えるという一幕もあって、昭和44年(1969年)に本格的な照明設備を持つ市営球技場が竣工した。少し遅れて、その北側に少年用の芝生グラウンドも作られた。
 ドクターの爆発的な推進力で、友の会の綱領はほとんど達成した。「兵庫と神戸のサッカー王国復活」だけが、まだ達成していなかった──。


★SOCCER COLUMN

部史作りブームに
『ボールを蹴って50年 神戸一中ア式蹴球部 神戸高校サッカー部』――大正2年(1913年)創部の旧制神戸一中(現・神戸高校)の50周年記念行事の一つとして編集されたB5版309ページの部史は、大谷四郎(37回生)賀川浩(43回生)岩谷俊夫(44回生)の3人がたまたま、朝日、産経、毎日とそれぞれの大阪本社の運動部にいたところから編集を任され、年長の大谷四郎が主幹の役割を務めた。
 予算をオーバーしがちなこの種の本が無事出版されたのは、記念行事を取り仕切った加藤ドクターの手腕によるところが大きい。
 神戸一中はすでに大谷四郎の在学中に河本春男部長の手で『神戸一中蹴球史』が生まれているが、この50年史(昭和41年)に刺激されて、各学校の部史が作られるようになった。
 少年サッカーや法人格クラブで先鞭をつけただけでなく、ドクターはまたサッカー史編集の面でも先駆者的存在となった。

サッカーカーニバルと次官通達
「小、中学生の対外試合禁止」という、いまから見れば極めて不思議な文部省次官通達が東京オリンピックのころにも生きていた。少年、少女が過度な競争意識のために健康を害してはいけないというのが本来の主旨だが、通達となると校長はそれを犯して試合をして、万が一、事故があったときには責任を問われかねないと、積極的なスポーツ奨励(対外試合)をしり込みすることが多かった。兵庫サッカー友の会では少年サッカー大会を行なうにも、“大会”ではなくサッカー祭り、あるいはサッカーカーニバルといった名称を付け、勝敗を争うのが目的でないという形をとらなければならなかった。昭和43年(1968年)に第1回兵庫少年サッカー大会を友の会が主催したが、このときの参加者(男子44人、女子4人)は、すべて「○○サッカー少年団」という名称で、学校名ではなかったのは、こうすることで学校の責任はなくなり、スポーツ少年団の指導者の責任で参加できたからだった。こうした“規制”の一つひとつと戦いながら、少年サッカーの普及は進んでいった。


(月刊グラン2001年8月号 No.89)

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