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普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(下)

夢の実現──兵庫から中央へ

 1963年(昭和38年)、東京オリンピックの前年にスタートした「兵庫サッカー友の会」が、発足当時に掲げた“友の会5つの夢”は以下の通り。

(1)少年サッカーの普及発展
(2)だれでも入れるサッカーチームの編成
(3)国際試合のできる専用球技場の建設
(4)芝生のサッカー場、特に少年専用を造る
(5)サッカー王国・神戸、兵庫の復活

 そのうち、(1)については1965年(昭和40年)に常設の少年サッカースクールを開校し、この神戸少年サッカースクールを中軸に、少年への普及を計り、1969年(昭和44年)には兵庫少年大会を主催し、また、神戸少年団リーグを運営するまでになった。
(2)については、友の会のなかに18歳以上のチームを設け、神戸市民大会などに出場するようになった。そして(3)は1969年、ナイター照明を持つ1万5千人収容のサッカー場が神戸市御崎に誕生した。その付属設備の一つに(4)の少年専用芝生サッカー場も、1面だけではあるが造られる計画となった。
 この早い目標達成には、当時のサッカー界全体の発展という追い風が幸いした。
 東京オリンピック翌年にスタートした日本サッカーリーグの人気上昇、その次の年(1966年)のアジア競技大会3位、さらに1967年(昭和42年)秋のメキシコ・オリンピック・アジア予選での優勝──。これまで、出ると負けの日本代表がアジアで勝つようになり、東京オリンピック予選の決勝のテレビ視聴率(NHK第1)が23パーセントに達したほどだった。そして1968年(昭和43年)のメキシコ・オリンピックでの銅メダル獲得。「普及はしても、代表がオリンピックで勝てるとは限らない。しかし、オリンピックで勝てば普及は進む」と昔から言われてきた通り、トップチームの国際舞台での好成績は人気を高め、普及につながるものだが、この時期に加藤正信ドクターの推進力で兵庫サッカー友の会が少年への浸透に努め、専用球技場建設運動に成功したことは、サッカーの人気を一時的なものでなく、日本全国の草の根に及ぼしてゆくのに大きな力となった。
 日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)がメキシコ・オリンピックの年の夏に、第1回全国クラブ育成協議会を開催し、全国各府県から集まった39人の代表と、主として少年対象のクラブの諸問題を協議したのも、各地の少年サッカーの発展ぶりに協会が目を開き、学校を中心とした普及と技術のレベルアップに力を入れてきたやり方を改革しようとしたからだった。
 2日間の協議会で分科会の討論があったが、加藤ドクターがその中心であったのはいうまでもない。


日本初の法人格、市民サッカークラブ

 夢の5分の4を実現した兵庫サッカー友の会は、1970年(昭和45年)12月に「社団法人神戸フットボールクラブ」に変わる。
 少年サッカーも、どんどん盛んになった。芝生のグラウンドも少ないけれど造られるようになった。しかし、兵庫のサッカーは、まだまだ王国復活とはいかない。そのためにはどうするか──。
 月に2、3回の少年サッカースクールは、子どもたちにサッカーを楽しむきっかけとしては必要だが、せめて週に4日くらいの練習ができるようにしたい。それもプロフェッショナルの指導者のいることが大切だ。少年への普及から、選手育成へと話が進み、コーチ資格を持った指導者を置くためには、友の会の財政を確かなものにし、法人格にすることが先決──となった。
 方針が決まってからの忙しさは尋常ではなかった。とりわけ中心の加藤ドクターは不眠不休の活動だった。
 クラブの名称を「サッカークラブ」にするか「フットボールクラブ」にするかも大きな問題だった。メディアではすべて「サッカー」で、日本蹴球協会の機関誌もすでに「蹴球」から「サッカー」と変わっていたが、ここはプライベートなクラブだから、世界で通用するフットボールに決めた。
 財政の確立のために、会費の金額は重要だったし、寄付金を頂戴する企業や基金との交渉もあった。しかし、もっとも特徴的だったのは、会員を少年部、青年部、成人部、壮年部(ベテランズ)と年齢別に区分けして、それぞれチームをつくったこと。
 少年部には12歳以下のボーイズ、15歳以下のジュニア、青年部は18歳以下でユース、成人部にはクラブの代表チームもあり、40歳以上は壮年部とした。後に名称は一部変わることになるが、プレーヤーの登録が学生とか社会人といった社会的身分によるものでないのが、当時として先端をゆくものだった。


年齢別登録の意味

 すでに前年に行なわれた第2回全国クラブ育成協議会で加藤ドクターは、日本協会の加盟団体の登録を年齢別に変更する提案をしている。これは、このころ中学を卒業した後、就職し、サッカーをやりたいという希望者がいること、また高校生で高体連に属していないチームが増えていること、これら18歳以下のメンバーで構成しているチームを社会人チームとして扱うのは不合理という理由だった。日本協会は広く検討することにしたが、協会がまだ決めかねているうちに、神戸FCは自らのクラブ内での区分と新しい(いまなら普通のことだが)やり方に変えたのだった。これは、このクラブの定款づくり、規約づくりにかかわった一人、大谷四郎の哲学「スポーツをするのに、学生であるとか社会人であるとかという社会的身分で区分するのはおかしい。区分をするのは身体の発育に関係のある年齢だけである」による。
 フットボール(サッカー)のプレーをすることを目的に、会員が集まるクラブだから、金持ちであろうと会社の上役であろうと、プレーする上では区別はない。あるとすれば、18歳の者は15歳以下の試合に出てはいけないこと(15歳が、18歳のチームに加わることもできる)、15歳の者は12歳以下のチームに入ってはいけないこと──つまり年齢に応じた発育によって区分けするのが、発育盛りの子どもたちには大切なこと。ドイツではアイスホッケーのクラブは少年の年齢のほかに体重も考慮し、ニュージーランドのラグビーでも年少のチームでは年齢とともに体重も区分けの対象にしているのだが(危険予防のため)、こうした世界の常識をふまえての登録だった。


Jリーグ発足の際の基盤にも

 日本協会が年齢別登録に切り替わるのは、これからまだ何年も先になる。高校チームのほとんどは18歳以下だから、U−18の登録でいい。もし、高校生という身分の生徒たちだけでスポーツ大会を行うなら、それはそれでよい(例えば高体連の大会)。
 ただし、それは18歳以下のカテゴリーのなかの高校生大会という一部(歴史的に非常に大きな部分となるが)にしかすぎない。従って、日本協会にとってのU−18カテゴリー全体のチャンピオンでなくてはならないという理念が通って、いまではU−18のチャンピオンを決める仕組みができている。

 いま、サッカー以外の多くのスポーツが不況のため、企業離れするとき、クラブというものを考え、そのクラブでの若年層のプレーヤーの育成を考えるとき、多くの競技団体があらためて年齢別の登録の問題に行き当たる。
 日本サッカーが1993年(平成5年)にJリーグを発足させ、プロのトップチームの下に若手育成を計ったときにも、すでに協会はチーム登録の問題は解決していたのだった。その先べんをつけたのが加藤ドクターたちのグループ、神戸FCだった。
 神戸FC創立の1970年は釜本邦茂が肝臓障害で、ヤンマーと日本代表の戦列を離れ、代表はメキシコW杯予選に敗れ、メキシコ・オリンピック銅メダルによる。「ブーム」に陰りが見え始めていた。
 一握りのプレーヤーをしゃにむに強化して成功の後の暗い谷間が近づき始めた日本サッカー界だったが、ドクターたちは法人格クラブという新しい試みに向かって走っていた。
 1971年(昭和46年)4月、日本協会公認指導員の資格を持つ黒田和生が、神戸FCにクラブの職員として入ってきた。いま、滝川第二高校(兵庫)の指導者として高校サッカー界で著名な彼も、筑波大学を卒業したばかりの青年だった。2年後には大阪体育大学から加藤ドクターの次男、加藤寛が加わった。


★SOCCER COLUMN

日本協会のクラブ育成協議会
 1968年(昭和43年)夏に日本蹴球協会は、東京で第1回サッカー・クラブ育成協議会を開催した。
 その閉会のスピーチで協会の竹腰重丸理事は「日本の将来を一層発展させるためには、ぜひクラブのサッカーを育成しなければならぬと思います。しかし、そのためにはどうしたらよいかということになると、まだ確信のある方針が日本蹴球協会にはつかめておりません。また各地の実情もつかめておりません。クラブをつくろうとすると、グラウンドがない、指導者がいないという困難がありますが、そのほかにも思わぬところに障害があると聞いています。今回の会合は一方的に協会の方針を聞いてもらおうというのではなく、いろんな問題の所在を討議し合い、意見を出し合って、第1回の協議会としての結論を出していただければと思います」と述べている。
 竹腰理事長はこの連載の第2〜4回(2000年5〜7月号)で紹介した日本サッカーの先進で、「技術の神様」であり、長い間、「代表強化が普及の近代」の主唱者でもあった。
「日本協会では毎年12〜1月に翌年度のスケジュールを検討しますが、ことしはメキシコ・オリンピックが第1の目標であり、次いで技術指導の制度、いわゆるコーチ制度を確立することが目標です。それに加えてクラブ育成の方針を見いだしたいということです。いろいろ目標を立ててはアブハチ取らずになるという意見もあったのですが、クラブ育成は将来への計画の重要な第一歩ですから、今年の3大目標の一つに取り上げたわけです」
 メキシコ・オリンピックという当時でいえば、協会の運命をかけた大会の直前に「強化第一主義」であった竹腰理事長たちが、草の根に目を向け、クラブ育成協議会を開くまでになったところに、今日の日本サッカーの基盤の一つがあった。そして、それは加藤ドクターをはじめ、各地域の推進者の努力が中央に波及したものといえた。

クラブルームと兵庫協会事務所
 神戸市の磯上公園グラウンド南側の一角に三木記念神戸市立スポーツ会館に兵庫県サッカー協会の事務所がある。
 財団法人三木記念館の寄贈による2階建てコンクリート造り、1階は更衣室2室と公園事務所、2階には大会議室、小会議室、事務所がある。訪れた人は府県協会でこれほど立派な事務所を持っているとはと驚く。たいていの協会事務所は会長、あるいは理事長の会社や居宅の一室を借りているところが多いが、実はこれも加藤正信ドクターの企画から生まれたもの。神戸FCのクラブルームをJR三宮駅にも近い磯上グラウンドに設置できないかと考え、(株)三共生興を一代で築いた三木瀧三氏(故人、当時三木記念会理事長)に寄付を願って快諾を得たのだが、さて、実際に神戸市の土地(磯上グラウンドは市立)の上に建物を建てて、神戸FCという私的クラブ(社団法人であっても)が管理することはできないということになった。普通ならクラブの直接のプラスにならないと見送るところだが、加藤ドクターは公的機関(たとえ法人でなくても)の県協会であればいいのではないかと市と交渉し、「三木記念神戸市立スポーツ会館」の維持運営は兵庫県サッカー協会が当たることになった。
 1995年(平成7年)の阪神大震災にも耐えて、建物は健在。いまもワールドカップ開催を控えた兵庫県協会の重要な拠点となっている。磯上案を白紙に戻した神戸FCは、小さなクラブハウスを加藤家の敷地に会員の募金で建設(1976年)した。


(月刊グラン2001年9月号 No.90)

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