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普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(続)

次男・寛はサッカーに差し上げる

 1970年(昭和45年)に加藤ドクターを中心とするグループは兵庫サッカー友の会を発展解消し、新たに財団法人神戸フットボールクラブを創設した。誰でも、いつでもボールを蹴ることができる市民クラブであるとともに、少年期のプレーヤーの練習回数を週3、4回と多くするために、専門のコーチを置くことに大きな狙いがあった。1971年(昭和46年)4月に黒田和生(現滝川第二高校)が筑波大を卒業し、クラブ職員となった。2年後、1973年(昭和48年)には大阪体育大を卒業した加藤寛も加わった。
 加藤寛は正信ドクターの次男で、1951年(昭和26年)1月29日生まれの当時22歳。父の影響を受けて上野中学、葺合高校とサッカーを続け、大阪体育大へ。1969年(昭和44年)、大学1年のときに第1回FIFAコーチング・スクールでデットマル・クラーマーの助手を務め、若いうちから指導者を目指していた。
 公益法人の認可を得て、クラブの「カタチ」は整った。71年度に始めた「ジュニア・サッカー・サマーフェスティバル」には全国の少年チームが参加し、1973年にはクラブが経営する少年サッカースクールに集まる生徒数は500人を超えていた。しかし、将来の経済的安定という点では、まだまだ不安もあった。この神戸FCへ次男の寛が勤務するようになったとき、ドクターは「息子を一人、サッカーに差し上げた」と言っている。
 70年代は神戸FCの発展期。若い熱心な職員(コーチ)を加えて、加藤ドクターや大谷四郎技術委員長をはじめ、クラブのそれぞれの委員たちも経験を積み、少年スクールもボーイズやジュニア会員の練習もレベルアップされた。
 1977年(昭和52年)11月には神戸FCに文部大臣賞が贈られ、ドクターはこの受賞祝賀会(12月12日)の席で、小冊子「目で見るKFC」を配った。


ますます盛んに少年サッカー

 この時期は日本代表チームがオリンピック予選でもワールドカップ予選でも勝てず、日本サッカーリーグもまた、試合形式や日程を変えるなどの努力はあっても観客数は伸び悩み、停滞期にあった。しかし、代表とトップ・リーグの足踏みはあっても、少年への浸透は止まることはなかった。
 神戸FCの年間行事、試合の多さも驚くほどになった。1977年から神戸市スポーツ少年団大会の名は神戸市少年サッカーリーグに変わった。「文部次官通達」といった規制に気兼ねし、社会体育だという逃げ口のための「少年団」という名称は不要となった。サッカー協会が少年への対外試合を主催できるようになったからだった。
 その一方では、このころから清水の水島武蔵をはじめブラジルなど海外へサッカー修得に向かう少年が現れた。
 枚方の近江達ドクターは、少年は遊びのなかからテクニックを覚える──という少年自らの興味を引き出す指導法を唱え、また清水の堀田哲爾は各小学校の優秀なプレーヤーを集めて定期的に練習会を設け、選抜制の清水フットボールクラブをつくって、その急速な成果を示した。
「試合場のタッチラインで大声を張り上げない」という神戸FCの方針もジュニア・フェスティバルを通じて徐々に全国の指導者たちにも理解されるようになった。
 ジュニア・サッカーに参加して、清水や広島の強い少年チームに接し、また、神戸・御崎を中心に大会が見事に運営されるのを見ると、日本のサッカーは、まだ絶えることはないのだと安心する──とは、伸び悩む地域の指導者の弁。かつて日本代表でユースの監督も務めた水野隆(元・中京大学監督)でさえ、「神戸へ来ると、サッカーはまだまだ盛んなのだとホッとする」と言っていた。


OBも楽しみ、バックアップしよう

 少年サッカーの全国的な進展の見通しがつくと、加藤ドクターは西日本のOB連盟を設立する。かつてサッカーに打ち込んだ旧制高等学校のOBたち、そのほとんどが協会の組織にかかわっていないのを見て、オールド・パワーを結集して日本サッカーのバックアップができないかと考えたのだった。
 1974年(昭和49年)、連盟事務所をクラブ内に置き、毎年のOB大会の開催からOBチームの海外遠征まで行うようになる。
 1978年(昭和53年)、ドクターは兵庫功労賞を受賞する。その仕事ぶりを行政から認められ、広くサッカー人の尊敬を集めながら、ドクターにはこの年12月の玉井操会長の死去が大きなショックとなった。会長とともによき理解者であった田辺五兵衛副会長もすでに(1972年)に去っていた。
 神戸FCの会長にはユーハイムの河本春男社長が就任する。
 その2年後の1981年(昭和56年)の総会でドクターは会の業務から退き、北川貞義氏とともに名誉副会長となった。69歳のドクターはまだまだ元気だったが、これまでにあまりにもその推進力に頼りすぎたクラブが反省の上に立って、組織を構成する一人ひとりの力をアップし、神戸FCという組織が長く機能し、維持することを考えるようになっていた。
 加藤ドクターに代わって中心になったのが技術委員長・大谷四郎(故人、1918−1990年)。「すじみち」を立て、理論的に説くこの人の手法に黒田、加藤寛、岡、昌子らの職員(コーチ)たちは、サッカーとクラブ運営に新しい発見をする。
 1990年(平成2年)2月1日、加藤ドクターは突然、死去。冬の温泉へ珍しくも夫婦で出かけた、その旅行先でのことだった。糖尿病も必ずしもよくなかった。前の年の12月に医師の廃業届を出し、薬をすべて処分していたという。鋭い先見性は自分の運命も見据えていたのだろうか。


阪神大震災を越えて

 少年は盛んであっても、トップ・プロはない──と言われた神戸にプロのクラブが生まれたのは1995年(平成7年)。そのプロの養成期間として神戸FCは高校、中学のチームを移し、加藤寛が出向することになっていたが、その直前の1月17日に大地震が発生、神戸FCの活動はしばらくストップする。それまで使用していたグラウンドが復興の資材置き場となったためだが、加藤寛も自宅が全壊、8ヶ月間、神戸高校の体育館が避難所だった。水や食事の供給、トイレ、あらゆる問題が山積みになるなか、加藤寛は父親譲りのバイタリティーと世話を買って出る血が動いて、いつの間にか1000人を超える避難所の住人の代表で働いた。「サッカーで個人の適性、能力を見抜いてチームを作る目が生きた」と後に彼は言うが、ここの避難所の統制の見事さに、救援に駆けつけたボランティア達も感心したという。
 このときの経験から、加藤寛はグラウンド上でのスポーツ技術の指導だけでなく、社会との結びつきの中でスポーツに、サッカーにかかわってゆきたいと思うようになる。
 ヴィッセル神戸のホームタウン推進部に属して、市民への浸透に努力しながら、6月に兵庫県から認可されスタートした「NPO法人神戸アスリートタウンクラブ」の理事長にも就任した。
 神戸アスリートクラブタウンというのは、一言で言えば、神戸という都市の復興計画にはスポーツは欠かすことができないとの考えからスタートしたもので、そのアスリートタウン構想を市民レベルで展開するための組織として、神戸アスリートタウンクラブが設立された。神戸FCのような公益法人でなく、新しいNPO法人(特定非営利活動法人)として今年3月27日に申請し、兵庫県から6月1日に認可を受けている。
 すでに正会員は103人(会費5000円)、賛助会員23社(1社5万円)、ボランティアも45人が登録されている。
 自分たちの町づくりにスポーツ環境を取り入れるアスリート構想の実現に、ボランティアクラブをつくって、多くの市民の力でかかわってゆこうというのである。
 アスリートタウン構想には、例えば市内の小学校の校庭をすべて芝生に──といった案も出されている。単なるお題目に終わるのか、加藤正信ドクターのように、どしどし実行に移してゆくのかどうか。
 そしてまた、父・加藤ドクターが掲げた5つの願いのなかで、ただ一つ成功していない「サッカー王国・兵庫復活」は、彼がどこでどのような仕事にかかわろうと、頭から離すことのできない目標であり、仕事でもある。そのことはまた、日本のレベルアップにかかわる要素でもあるからだ。


(月刊グラン2001年10月号 No.91)

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