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チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(上)

 河本春男(91)──神戸の有名なケーキ作りの老舗「ユーハイム」の社長、会長であったこの人は、大戦後、教育者から“かつぎ屋”そしてユーハイムの再建に取り組み成功し、業績を拡大した波乱の人生で知られている。新聞社の調査室にある各社のプロフィールを見ても、そのユニークな後半生を取り上げ、描いた記事が多い。しかし、明治43年(1910年)生まれで、昨年6月、同社の会長を辞任するとともに、90歳を機に一切世間には出ないと宣言して、悠々の隠居生活に入ったこの人の一生は、実はサッカーに始まり、引退までサッカーにかかわっただけでなく、その前半の生涯で神戸一中蹴球部の部長であった時期には、同校の黄金期をつくっている。
 そして、その手腕と情熱は、単に旧制中学の強チームや優秀な選手を生み出しただけでなく、OBの力を結集して、独自の技術、戦術のコンセプトを持ち、高いレベルを維持する集団としての学校スポーツクラブをつくりあげたのだった。不幸にして、この神戸一中の蹴球部という稀有の旧制中学スポーツクラブの技術習得指導は、太平洋戦争とその直後の経済困窮と学校の制度改革などによって今日への伝承はうまくいってはいない。しかし、河本が7年の指導期間で残した業績と日本サッカーに与えた影響は、彼の母校・東京高等師範が世に送り出した多くの優れた教育者、スポーツ指導者のなかでも、ひときわ輝くものだった。


イートン・カレッジの校風のなかで

 河本とサッカーとの結びつきは大正12年(1923年)、愛知県立刈谷中学(現・刈谷高校)、入学してからのこと。その4年前に開校した同校は初代の羽生隆校長の「英国のイートン・カレッジに範を取る校風を」という理想から、野球王国といわれた愛知県では珍しく「野球よりフットボール」を校技としていたので、自然になじむようになった。
 蹴球部への入部のきっかけは、昼休みに部員だけでなく一般の生徒もともに円陣をつくってロングキックをしていたとき、自分の前にきたボールを蹴ると、すごいスピードでボールが飛んでいった。本人も驚いたが、周囲はもっと感心して「部員になれ」と勧誘されたからという。
 ボールを蹴ることが自分に合っていると思えば励みがつく。大正14年(1925年)、3年生になるとレギュラー、小柄で足が速く、右のウイングFWとなる。
 そのころ愛知県では愛知第一師範や明倫中学などが強かったが、大正15年(1926年)の第八高等学校(現・名古屋大学)主催の全国大会には関西の強チーム・神戸一中を2回戦で倒し、決勝では明倫中を破って初優勝している。全国中学選手権(現・全国高校サッカー選手権)は大正天皇の御諒闇のために中止となったのは残念だったが…。
 刈谷中を卒業すると昭和3年(1928年)、東京高等師範に進む。教育者の家系にあって、当然の選択でもあったが、体育専科で好きなサッカーに打ち込めるのも魅力だった。


1日100本クロスで発熱

 東京高等師範、略称・高師はその前身の体操伝習所(明治11年創設)以来、日本サッカーの草分けとしてすでに50年の歴史があり、大正13年(1924年)の東京コレッジリーグ(現・関東大学リーグ)の創立メンバーでもあったが、昭和に入ると帝大(現・東京大学)、慶応、早稲田などの台頭で下位に追われようとしていた。
 1年生でその高師のレギュラーとなった河本は、その責任感から右のウイングFWとしてのセンタリング(クロス)の精度を上げるために、1日100本の練習を続け、1ヶ月後に高熱を発して休むはめになったという。同じキックの繰り返しでリンパ腺が腫れたのだった。
 6年制の早大や慶応に比べると、4年制の高師は個人技でもチーム力でも劣っていて不思議はない。3年生のときには2部へ転落するが、4年生でキャプテンとなって2部で優勝して1部復帰を果たす。静岡の志太中学から昭和5年(1930年)に高師に入った槙原徳治は、この1部復帰は河本主将によって合理的、組織的攻撃法が採択されたためと回想している。
 昭和7年(1932年)、あのロサンゼルス・オリンピック。日本のスポーツ熱が高まる年の3月、高師を卒業し、神戸一中の池田多助校長の要望によって神戸へ赴任した。
 大正2年(1913年)の創部以来約20年を経て神戸一中は、すでにそのスタイルを確立し、昭和5年(1930年)には全国中学選手権の優勝も経験していたし、昭和2年(1927年)には卒業生でつくったチーム「神中クラブ」で日本選手権(現・天皇杯)に初出場、初優勝して全国的にも知られていた。ただし、学校側にはサッカーを熟知した職員はいないままで、もっぱら生徒やOBたちの努力による成果だった。
 自らスポーツマンでもある池田多助校長はサッカーの指導のできる教職員を求め、刈谷中学時代に神戸一中を倒した経験もある高師のキャプテンに白羽の矢を立て、東京へ出向いて高師側に強く要請して獲得した。


雨中の練習と熱いうどん

 赴任早々のエピソードは池田校長の目が確かだったことを示している。
 着任初日は雨、薄ら寒い日だった。河本がグラウンドを見ると、誰も出ていない。部室をのぞくと上級生は誰も着替えていない。「練習は?」と聞くと、「雨ですから」との答え。雨が降ってもサッカーの試合は中止にならない。「さあ、練習しよう」と雨の中でしっかり練習。終わると、用務員を通じて頼んでおいた熱いうどんを皆で食べた。
 次の日から、雨の日に休もうと言うものはいなくなった。
 この昭和7年の5年生(神戸一中34回生)には、後に日本代表となった小橋信吉、播磨幸太郎、小野礼年などがいて、4年生は一人だったが、3年生は11人で、後に日本代表となる二宮洋一、直木和、笠原隆、GK津田幸男、大山政行などの素材がそろっていた。
 新しい指導者を得て、若いチームは全国選手権の兵庫県予選で御影師範を5−4で破って代表となり、本大会では埼玉師範、天王寺師範、愛知一中を1回戦から準決勝まで3−0、10−1、3−0と快勝、決勝でも東京の青山師範を2−1で下して、3回目の優勝をもたらした。当時の新聞評には、グラウンドコンディションが悪いために得意のフットワークがスポイルされたにもかかわらず、貧弱な体格で超中学級の試合ぶりだったとある。雨の日の練習の成果がここにも表れている。


目標を失っても──

 着任早々に部員たちの心をつかんだ河本副部長は翌年から部長となり、昭和14年(1939年)4月まで数々の栄冠をもたらす。
 小柄な選手が多いチームが、その特性の素早さを生かして体格の不利を補う。自分も小柄で、足の速い選手だった河本部長は、神戸一中の伝統的な攻撃に自分の経験からのアイディアを加え、練習法も戦術も高いレベルを目指した。
 3年目のチームは粒がそろっていて全国優勝の力は十分といえたが、ベルリン・オリンピックが8月にあったところから、主催の新聞社がそれまで冬(1月)だった開催を夏に切り替え、そのため昭和10年(1935年)1月の大会はなく、代わりに昭和9年(1934年)夏に全国招待大会を行なった。前述の3年生が2年の経験を積んだこのチームは、中学カテゴリーの三つの大会に優勝しただけでなく、旧制インターハイ優勝の第六高等学校、高専大会の優勝の神戸高商とも試合し、いずれも3−2、5−3で勝っている。
 全国選手権という最大の目標が消えても、年齢が上の学校や外国船チームとの対戦を組んで、成長期の選手たちの力を伸ばそうとする配慮が、この世代の中から多くの日本代表を生み出したともいえる。
 この指導者の非凡な点は単に学校のチーム、生徒のチームの強化だけでなく、神戸一中が生み出した多くのOB、大学生、社会人──ひのき舞台で活躍中の多くをはじめ、卒業生たちを集めて、OB会というべき神中クラブを組織し、OBたちが休日、春休み、夏休みに絶えず、学校のグラウンドに集まる仕組みを考えた。いわば春休みの学校のグラウンドは、いまでいう日本代表クラス、U−23、U−21などの代表候補クラスと各カテゴリーのプレーヤーが集まり、それとU−17ともいうべき中学生チームの合同練習場となった。いわば欧州のクラブのシステムに似た、年齢幅のクラブの練習会の様相となり、他の学校と隔絶した環境が現役中学生チームのレベルアップ維持の大きな力となっていた。サッカーのテクニックやタクティックだけでなく、こうした大きな経営戦略を考え、実行する力が後にユーハイムの社長となったときに役立ったのかもしれない。


★SOCCER COLUMN

東京高等師範とフットボール
 日本のサッカーの始まりは、明治6年(1873年)、東京・築地の海軍兵学寮へ指導に来ていたイギリス海軍のダグラス少佐とその部下33人の軍人が、訓練の余暇にプレーした──となっているが、実際に一般社会へ広まっていくのは体操伝習所(1878年設立)の教科の一つに「フットボール」が加えられてから。体操伝習所は明治19年(1886年)、東京高等師範学校設立とともに、その体操専修科となる。高等師範は旧制の中学校や師範学校、あるいは女学校の男子教師を養成する国立の教育機関で、後に文理大学を経て現在の筑波大学となる。
 その高等師範(略称・高師)の校長に明治26年(1893年)、嘉納治五郎が就任すると、柔道をはじめ各種の運動を奨励し、明治29年(1896年)には運動会という組織をつくって、生徒は8科目のスポーツのどれかを行なうようになる。サッカー(当時はフットボール)はその一つで、後に校友会蹴球部となり、ここでサッカーを覚えた卒業生が各地の学校で指導して、日本での普及が進んだ。いま筑波大学は、高師以来の115年の伝統の上に立って、優秀な選手、指導者を送り出すとともに、重要なサッカー研究機関としても知られている。

旧制刈谷中学は野球より蹴球
 愛知県刈谷中学は大正8年(1919年)に創設、この年、愛知県では県立第六中学が一宮に、第七中学が半田に、第八中学が刈谷に同時開校された。
 野球の盛んな愛知県で、野球をしないでサッカーを校技としたのは、質実剛健な生徒育成のスポーツとして全校生徒ができるものをということからで、マラソンとサッカーを選び、創立3年目から教科課程の一つとした。
 反対論もあったが、高橋英治(後の第4代校長)、和知環(初代サッカー部長)ら教員の熱意で創立3年目から実現した。この第4代校長の子息で昭和9年(1934年)の卒業生・高橋英辰(1916−2000年)は日本代表や日本リーグ・日立製作所(現・柏レイソル)の監督を務めた、知る人ぞ知る名コーチ。
 サッカーを校技とする刈谷中によって、刈谷市もまたサッカーの町を印象づけ、その伝統は刈谷高校となってからも受け継がれた。創立70周年(1988年)記念事業には英国パブリックスクールの名門イートン・カレッジとの交流試合を行なった。ケンブリッジやオックスフォード大学へ進む英国の超エリートが8月16日から2週間にわたって来日したのは、刈谷高校の校風にひかれてのことだった。


(月刊グラン2001年11月号 No.92)

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