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チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(下)

64年前の蹴球部史づくり

 明治43年(1910年)生まれの河本春男(91)がユーハイムの経営にかかわったのは昭和37年(1962年)──世は上げて2年後にひかえた東京オリンピックに向かって走っていた。48歳での転進きっかけとなったのは、創業者カール・ユーハイムの夫人、エリーゼの懇望によるもの。そのいきさつと、その後の会社の発展は、素晴らしい成功物語であると同時に、人の世の出会いの不思議を考えさせられるもの。特に河本“先生”の弟子であり、スポーツを書くことを業(なりわい)としている私にとっては、ドイツと日本のサッカーの縁(えにし)の面白さをあらためて感じるのだ。が、ここでは、そのユーハイムの経営に入る前の河本春男の「サッカー・指導者時代」を再度、眺めてみる。

 大正12年(1923年)に愛知県立刈谷中学に入学してサッカーに夢中になり、東京高等師範(略称・東京高師)いまの筑波大に進んで、さらに4年間サッカーに打ち込み、昭和7年(1932年)卒業とともに兵庫県立神戸第一中学校(略称・神戸一中)いまの神戸高校に赴任。体育を受け持ちつつ、サッカー部を指導し、黄金期を形成したことは前後でも紹介した。OBの力を集結する組織づくりを計ったことにも触れた。OB会の組織を確立するため、第1回の神戸一中倶楽部東西対抗戦を神戸市生田川畔の同校グラウンドで開催、『神戸一中蹴球史』を編集し出版したのが昭和12年(1937年)着任から5年後、27歳のときだった。
 昭和12年といえば、その前年のベルリン・オリンピックで、初参加の日本代表が、優勝候補の一つスウェーデンに逆転勝ちした後であり、関東、関西の学生リーグもレベルアップし、昭和15年(1940年)の東京オリンピック開催に向けて、代表強化にも力が入っていたときだった。


高山、若林、大谷、右近、日本代表がぞろぞろ

 神戸一中のサッカー部もまた、大正2年(1913年)の創部以来25年、神戸外人クラブ(KRAC)の影響を受けて、当時の新知識を吸収し、大正12年にはビルマ(現・ミャンマー)人チョー・ディンの実技指導を受け、技術的にも戦略的にも急速な進歩を遂げて、御影師範に追いつき、追い越そうとしていた。
 卒業生(OB)のなかには慶應ソッカー部創設者の一人、大正7年(1918年)卒業の範多(はんた)龍平(19回生)同10(1921年)卒の白洲次郎(22回生)や昭和初期の東大黄金時代を支えた高山忠雄(大正11年卒、23回生)小畠政俊(同)若林竹雄(大正14年卒、26回生)京大で一時代を画した西村(のちに赤川)清(大正13年卒、25回生)といった河本春男より一時代前の名選手もいた。これらは日本サッカーが、昭和5年(1930年)の極東大会で、初めて中華民国(現・中国)に追いついたころの世代だが、それより少し若いベルリン世代、大谷一二(昭和6年卒、32回生)加藤正信(同)右近徳太郎(昭和7年卒、33回生)さらには河本の着任早々の教え子ともいうべき、小橋信吉、播磨幸太郎、小野礼年たちの昭和8年(1933年)卒業、34回生、その2年下の大山政行、二宮洋一、津田幸男、笠原隆の昭和10年(1935年)卒、36回生などなど…日本代表の経験者や現役選手──いわば日本サッカー史に名をとどめるプレーヤーがOBのなかにぞろぞろいた。
 第1回の座談会ならびに後援会創設相談会は、昭和9年(1934年)8月22日だった。


教師、コーチ、編集者

 このときの相談会の約1週間後の9月1日に神戸一中蹴球倶楽部第2回創立集会を開き、OBの規約を決めている。そこで議案に上がった神戸一中蹴球倶楽部第1回東西対抗が行われる昭和12年3月28日までの準備と、同年11月3日に『神戸一中蹴球史』を発行するまで、河本部長の日々は、学校の授業と、サッカー部の練習に加えて、OB会の仕事で、まさに超多忙であった。
 この20代の若い部長の努力で、大正2年の創成期のころの人たち(神戸一中14回生)の記述が残されたこと、そしてまた、当時の一流プレーヤーとなった人たちの練習や工夫が書き込まれたことで、単に一つの中学の部史ということだけでなく、日本のサッカー史にとって、大正初期から昭和5年の極東大会へ、さらに昭和11年(1936年)のベルリン・オリンピックへの技術、戦術の流れを当事者たちの手記や座談会で見ることができる貴重な文献ともなった。神戸一中43回生の私と仲間が創部50周年を記念して、昭和41年(1966年)に『ボールを蹴って50年』を発行し、各校の部史発行の魁(さきがけ)となったが、これも、その29年前につくられた河本春男編の神戸一中蹴球部史のおかげといえる。


一歩を先んじる“出足”を強調

 自らも小柄で俊足の選手であった河本春男は、その経験から、まず相手より一歩先んじてボールを奪うことを強調した。大柄な相手がキープし、前を向き、こちらのゴールに向かって突進してきてから迎え撃ったのでは、ソンになる。まず、マークする相手にボールが渡る前にインターセプトする。
 そのためには、常にボールと相手側プレーヤーに注目し、ボールがここへ来ると見れば、その気配を察知して、一歩先に寄って奪う。
 そのためには、さらに“出足”(スタート)をよくすること、その姿勢は、足のカカトは、といった点まで注意した。
 相手のパスをインターセプトし、素早くそれを前方の選手に短くても、早く、正確につないで攻める。サイドキックを多用し、インステップやチョップを交えてボールをつないで攻め込むショートパスは、まず“出足”でボールを取り、受けるものが“出足”でマークを外し、相手のいないところへ素早く走り込んでパスを受けてシュートを決める。やってみれば至極簡単な戦術だが、このスタイルで神戸一中が師範学校に対抗して全国大会で優勝を重ね、昭和10年代には全国大会で朝鮮地方代表と3度戦って負けなし(2勝1分け)の成績を収めたのは、“出足”で相手ボールを奪うこと、そのために、常に練習のフルタイム、試合のフルタイムにイレブンが集中力を切らさなかったから、といえる。


中学生に新しい3FB制を導入

 戦中、戦後のCFの第一人者といわれた二宮洋一選手はこう言っている。
「3年生のときに迎えた河本先生は、毎日生徒とともに雨の日も風の日もボールを追って走られ、サッカー部の全員は精神面でも大きな影響を受けた。すでにつくり上げられていた伝統の上にアグラをかこうとする若者の手綱を締めて、伝統をわれわれの血となし肉としてくださったのが先生であった」
 精神面だけでなく、技術、戦術を見る目も確かだった。
 昭和13年(1938年)度のチームは出色の右ウイング友貞健太郎を主将とし、4年生に賀川太郎たちのいる実力あるチームだったが、当時の中等学校としては、いち早く3FB制を採用した。2年前のベルリン・オリンピックで、日本代表がヨーロッパに着いてから身につけた新しいフォーメーションだった。相手のFWで最も優れたストライカーであるCFにマンマークのつく、このシステムは、この年のチームにCH(当時はCDFをセンターハーフと呼んでいた)のポジションに松浦、または水沢という適者を得て、神戸一中は兵庫予選から、全国大会決勝までの全試合を無失点で勝ち抜いた。

 河本春男がユーハイムの経営にかかわるのは昭和37年(1962年)3月、昭和14年(1939年)に神戸一中から岡山女子師範に転勤し、その後、軍隊で中国大陸へ、さらに復員して岐阜県で勤めた後、大戦終結を迎えて昭和22年(1947年)に体育主事を退職し、商人の道に入ってから15年、神戸一中時代から23年が過ぎていた。
 岐阜県高山の実家に近い牧場からバターを神戸の菓子メーカーに売るようになり、自ら会社を持って、軌道に乗り始めたとき、ユーハイムの創始者、故カール・ユーハイムのエリーゼ夫人にその人柄を見込まれての話だった。
 ドイツ菓子のメーカーで神戸・三宮に店を出していたユーハイムは大正13年(1924年)生まれの私の少年期には、ハイカラ神戸の象徴でもあり、ユーハイムのケーキはステータスでもあった。
 その店が第2次大戦以来、さまざまな難事が重なって、エリーゼ・ユーハイムが実権を失うかどうかというところまできていた。
 アルプスバター神戸直売所をつくり、ユーハイムに納めていた河本春男こそ、この苦境を救える男と見てのエリーゼ夫人の懇望だった。経済的にはまったくひどい状態で、普通なら引き受けられるはずはないのだが、婦人の熱意に「やってみよう」と思ったという。
 決心してからの金繰りの算段、そして仕事を軌道に乗せてゆくための数々のアイデアと努力は、それだけで本になるほどだが、そこには常にサッカーで培った「一歩先んじ、一刻を早く」──神戸一中の“出足”論があり、選手の心をつかみ、OBたちの気持ちを一つにまとめた誠意と気配りが底流にあった。
 91歳となって、すべての付き合いを避け、悠々たる隠居生活に入ったいま、現代社会をそのままに映し出すサッカー界をどう見ているのか、指導者として企業の経営者として二つの重要な仕事に成功した先達の足跡をたどり、その一つひとつの言葉をあらためて噛み締めたい。


河本春男(かわもと・はるお)略歴
明治43年(1910年)3月28日愛知県に生まれる。
大正12年(1923年)4月、愛知県立刈谷中学校入学、1年からサッカー部に。
大正15年(1926年)3年生でレギュラー。八高主催の全国大会で優勝。
昭和3年(1928年)刈谷中学卒業。東京高等師範学校入学。
昭和7年(1932年)東京高等師範卒業、神戸一中の体育教諭、サッカー部副部長に。
昭和12年(1937年)『神戸一中蹴球史』編集発行。
昭和14年(1939年)岡山女子師範学校へ転任。
昭和16年(1941年)召集、中国大陸へ。
昭和18年(1943年)除隊、岐阜県体育主事に。
昭和22年(1947年)退職し商人に。
昭和33年(1958年)アルプスバター神戸直売所を設立。
昭和37年(1962年)(株)ユーハイム代表取締役専務となる。
昭和39年(1964年)東京オリンピック開催、洋菓子ブーム。
昭和41年(1966年)愛知県安城工場(敷地5千坪)建設。
昭和46年(1971年)エリーゼ・ユーハイム社長死去の後、同社社長に就任。
昭和50年(1975年)長男・武が専務に就任。
昭和51年(1976年)ドイツ・フランクフルトのゲーテハウスに第1号店出店。
昭和54年(1979年)神戸FC会長に就任。
昭和60年(1985年)ユーハイム会長に就任、新社長は長男・武。
平成9年(1997年)神戸FC名誉会長。
平成12年(2000年)ユーハイム会長をはじめ、一切の公職も辞し、隠居生活に。


★SOCCER COLUMN

捕虜とケーキとサッカーと第九
 ドイツ人、カール・ヨセフ・ウイルヘルム・ユッフハイム(正確にはこういうらしい)が中国・山東省青島のドイツ菓子の店で働くようになったのが1908年。
 ドイツの軍港であったこの地は、第1次大戦中、日本軍が1914年に占領し、カール・ユーハイムは1915年から日本の捕虜収容所で暮らす。1919年のドイツ降伏で自由となった彼は、東京・銀座で働き、やがて横浜で婦人の名を冠したE・ユーハイムという店を持ったが、1923年の関東大震災に遭い、着の身着のままで神戸へ。バレリーナのアンナ・パブロワの励ましを受けて、神戸・三宮にケーキと喫茶店(ユーハイム・コンフェクショナリ・アンド・カフェ)を出して成功したのだった。
 ついでながら、第1次大戦のドイツ人捕虜が日本にもたらしたものは、こうしたユーハイムやフロインドリーブのケーキ、ローマイヤのドイツ料理があり、徳島の捕虜収容所でのベートーベン「第九交響曲」の合唱が、現在の日本の第九の合唱の盛況につながっているという。そしてまた、広島県似島(にのしま)での捕虜チームとのサッカー交歓試合は、大正期の広島サッカーのレベル向上にもつながっている。太平洋戦争では日本の捕虜虐待が問題になったが、日露戦争からこのころの日本軍は、国際条約を忠実に守り、似島の収容所ではクリスマスにカール・ユーハイムはドイツケーキを焼いたという話もある。収容所は日独文化交流の小さな基点であったかもしれない。

ゲーテハウスへの里帰り
 ドイツのケーキ職人、カール・ユーハイムとその婦人が作り、第2次大戦後、河本春男が発展させたユーハイムが、フランクフルトのゲーテハウスにケーキの店と日本料理店を出したのは、1976年だった。これは春男社長の長男・武専務(当時)の案で、里帰りとして、フランクフルトでも評判になったもの。武専務は、筑波大学出身、学生時代は棒高跳びの選手だったが、病のためスポーツのトップを断念して語学に打ち込み、ドイツ語を覚えたのが、後に父親の会社に就職してから役に立った。
 昭和15年生まれの河本二世は、父親の「一歩先んじ」をワールドワイドに生かし、東京ディズニーランドのスポンサー企業となり、フランスのペルティ社と契約し、ドイツにも2、3号店をオープンさせるなど次々に布石を打ち、ともすれば保守に傾く老舗体質のなか、常に改革を計ってきた。
 21世紀を迎えて、日本にもヨーロッパへの関心が高まり、ドイツの環境対策や生活安定に目を向けるようになってきた中で、ドイツ文化の一つであるドイツケーキ、健康で飽きのこない味を基盤に、どのようにユーハイムを経営してゆくのだろうか──。


(月刊グラン2001年12月号 No.93)

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