賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(上)

20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(上)

30年前の世界クラス

 今月の『このくに と サッカー』は、釜本邦茂です。日本サッカーの現在の「かたち」を築くのに大きな力となり、後にまで影響を及ぼした人を紹介してゆくこの連載で、年代順にゆけばもう少し遅くに登場させたいところですが、2002年ワールドカップを控えて、日本サッカーの流れを扱うメディアが増えていることでもあり、テレビ局や新聞、雑誌などからメキシコ・オリンピック得点王であり、もし当時、世界のトップリーグへ行っても十分に通用したであろうと言われた、この偉大なストライカーについての問い合わせも多いということで、順序を早めての掲載です。


ベテラン英国人記者へ強い印象

 英国の『サンデー・タイムス』の記者であり『月刊ワールド・サッカー』誌のコラムニストでもあるブライアン・グランビルは、その著『ザ・ストーリー・オブ・ザ・ワールドカップ』の改訂版の巻頭に、初のアジアでのワールドカップ大会開催に触れ、1968年(昭和43年)メキシコ・オリンピックでのCF(センターフォワード)の釜本邦茂の大活躍に魅了された自分にとって、イタリアのリーグへの素晴らしいアタッカー、中田英寿を送り込むまでになった日本サッカーの発展ぶりを今度の大会で見ることは、誠に興味深い──と述べている。
 1931年(昭和6年)ロンドン生まれ、70歳の彼は1958年(昭和33年)からワールドカップの取材を続けているベテランの国際派。1965年(昭和40年)のアンブロ・カップ以来、ヨーロッパへ出かけて試合をする日本を見て、昔よりすべてに進歩しているにもかかわらず、なぜ、第2、第3のカマモトが現れないのかと、こちらに問いかけるのだった。それほど1968年のメキシコ・オリンピックの得点王のプレーが大記者の頭に焼き付いているといえる。
 1964年(昭和39年)の東京オリンピックからメキシコ・オリンピックへの代表チームの強化については、この連載の2001年3〜6月号の『デットマール・クラマー』で紹介した。個人技は欧州、南米、アフリカの選手たちには及ばなくても、チームワークでそれを克服したのだが、主将であった八重樫茂生が「メキシコ五輪の代表チームは、確かに個人的な“職人”がそろっていた。杉山隆一、宮本輝紀、小城得達らがいてチームワークも素晴らしかったが、それでも釜本という核弾頭、強シューターがいなかったから、銅メダルはなかっただろう」と言う通り、釜本の働きはひときわ目立つものだった。


オリンピックの得手王は世界ランク

 オリンピックといえばワールドカップよりレベルは落ちる大会と見られている。それでも東京オリンピックで優勝したハンガリーは、2年後のW杯イングランド大会で準々決勝へ進み、1972年年(昭和47年)のミュンヘン・オリンピックで金メダルのポーランドは、W杯西ドイツ大会(1974年)ではイタリアやアルゼンチンを抑え、ブラジルに勝って3位となった。
 こうした東欧社会主義国はいずれも国の威信にかけてのオリンピックであり、いわゆるステートアマ(国のバックアップを受け、プロのような環境に恵まれているアマチュア)の代表チームには西欧、南米のチームには対抗できないのが、1952年(昭和27年)のヘルシンキ・オリンピック以来、20数年の例だった。その中で、アウトサイダーともいえる日本代表が3位を占めたのだから──。
 個人的に見てもオリンピックの得点王といえば、1948年(昭和23年)のロンドン大会で7ゴールを挙げたスウェーデンのG・ノルダールは後にイタリアのセリエAで大活躍し、1964年の東京で12得点したベネ(ハンガリー)はワールドカップでもブラジルを倒すゴールを決めている。1972年のミュンヘンでの得点王のディナ(ポーランド)は、1974年(昭和49年)のW杯西ドイツ大会のスターとなり、同じとき6得点で3位となったブロヒン(ソ連)は、ディナモ・キエフのエースとしてベッケンバウアーのバイエルン・ミュンヘンを破っている。そうした世界的ストライカー群の中に、アジア・サッカー界からただ一人、名を連ねているのが釜本邦茂である。


右、左、ヘディング、なんでもOK

 メキシコ・オリンピックでの釜本のゴールは以下の通り

▽1次リーグ
 対ナイジェリア(3−1)3得点
 対ブラジル(1−1)1アシスト
 対スペイン(0−0)

▽準々決勝
 対フランス(3−1)2得点2アシスト

▽準決勝
 対ハンガリー(0−5)

▽3位決定戦
 対メキシコ(2−0)2得点

 6試合7ゴール、2アシスト。そのうちわけは、右足シュート4点、左足シュート2点、ヘディング1点、アシスト(ともに渡辺正のゴール)はヘディングのパス、右足のパス各1となっている。足のシュートには、ドリブル・シュート、胸で止めてのシュート、ダイレクト・シュートなどがあって、自分で切り開いてシュートへ持っていくことも、仲間のパスを受けてトラッピング(胸も含め)してシュートすることも、止めないでシュートすることもできた。またヘディングは直接ゴールにたたき込むのも、仲間の走り込む地点へ落とすことも、その時々に正確なプレーのできたことをこの記録からも知ることができる。
 このオリンピックでの活躍で、彼は同年秋にブラジルで開催されたブラジル代表対FIFA選抜の試合に、FIFAチームの一人に選ばれた。日程などの都合で参加しなかったが、もし参加していれば、世界の評価はまた高まって、彼の人生はまた違ったものになったかもしれない。
 メキシコ・オリンピックの後も、彼の選手生活は長く輝くのだが、こうしたストライカーがどうして育ち、長くプレーを続けたのか、次号で環境の恵まれなかった時代に世界から評価された彼のプレーのスタートから、靴を脱ぐまでのキャリアを眺めながら、今の時代と思い合わせることにした。


釜本邦茂(かまもと・くにしげ)
 (財)日本サッカー協会副会長、2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会理事、前参議院議員

昭和19年(1944年)4月15日、京都市に生まれる。
昭和26年(1951年)4月、京都・太秦小学校入学、4年生からサッカーに親しむ。
昭和32年(1957年)4月、京都・蜂ヶ岡中学入学。
昭和35年(1960年)4月、京都・山城高校入学。10月、熊本国体で山城高校が優勝。
昭和37年(1962年)1月、高校選手権準優勝。4月、ユース代表で初の海外遠征。
昭和38年(1963年)4月、早稲田大学商学部入学。4月、ユース代表で2度目の海外遠征。
            11月、関東大学リーグで早大が優勝、釜本は得点王(11点)。以来4年連続得点王。
昭和39年(1964年)1月、第43回天皇杯で早大が優勝。3月、日本代表チームの東南アジア遠征に参加。
            10月、東京オリンピックに出場、アルゼンチンを破りベスト8に。
昭和41年(1966年)12月、第5回アジア大会(バンコク)に出場、3位。
昭和42年(1967年)3月、66年度最優秀選手に選ばれる。
            4月、ヤンマーディーゼルに入社、日本リーグに初登場。
            9月、メキシコ・オリンピックのアジア予選に出場、日本が代表に。
昭和43年(1968年)1月、西ドイツに留学。
            10月、メキシコ・オリンピックで日本は銅メダル、釜本は7得点で得点王に輝く。
昭和44年(1969年)1月、天皇杯でヤンマーが初優勝。
            3月、2度目の年間最優秀選手に。
            6月、ビールス性肝炎で入院。ワールドカップ予選を欠場、日本リーグには途中から復帰。
昭和45年(1970年)11月、日本リーグで68年に次いで2度目の得点王。
            12月、第6回アジア大会では日本は4位(釜本は3得点)。
昭和46年(1971年)9月、ミュンヘン・オリンピック予選で日本は敗退。
            11月、日本サッカーリーグでヤンマーが初優勝。
昭和47年(1972年)3月、71年度最優秀選手に(3度目)。
            7月、マレーシアでのムルデカ大会で得点王(15得点)。
昭和48年(1973年)西ドイツ・ワールドカップ予選で敗退。
昭和49年(1974年)6月、欧州遠征、ワールドカップ見学。
            9月、第7回アジア大会1次リーグで敗退。
            12月、日本リーグでヤンマーが優勝(2度目)、釜本は4度目の得点王。
昭和50年(1975年)1月、天皇杯でヤンマー優勝(3度目)。
            3月、4度目の年間最優秀選手。
            12月、日本リーグで3度目の優勝、釜本は5度目の得点王。
昭和51年(1976年)3月、モントリオール・オリンピック予選で日本敗退。
            3月、5度目の年間最優秀選手。
            6月、タイのクイーンズ・カップでヤンマーが優勝。
昭和52年(1977年)3月、ワールドカップ予選で日本敗退。
            6月、日韓定期戦で日本代表を引退。
            9月、ペレの引退試合で釜本も引退セレモニー。
昭和53年(1978年)2月、ヤンマーのプレーイング・マネジャーとなる。
昭和54年(1979年)9月、日本リーグで200試合出場。
昭和55年(1980年)10月、監督就任3年目、自らプレーもして優勝。
            12月、ユニセフ・チャリティー・マッチに出場(バルセロナ)。
昭和56年(1981年)3月、6度目の年間最優秀選手に。
            11月、対本田戦でリーグ通算200ゴール達成。
昭和57年(1982年)5月、対日立戦で202ゴールを達成。
            5月、対マツダ(東洋工業)でアキレス腱を切断。
昭和58年(1983年)11月3日、1年6ヶ月ぶりで日本サッカーリーグ出場。
昭和59年(1984年)1月、天皇杯決勝で現役最後のプレー。
            2月13日、現役引退を発表。
            8月25日、国立競技場で引退試合。ペレ、オベラーツも友情出場。
昭和60年(1985年)2月、ヤンマー監督を辞任。
平成3年(1991年)7月、Jリーグ入りする松下電器(ガンバ大阪)の監督に就任。
平成7年(1995年)1月、ガンバ大阪監督を辞任。7月、参議院議員当選。
平成10年(1998年)7月、日本サッカー協会副会長に就任。
平成11年(1999年)7月、2002年強化推進本部長に就任。
平成12年(2000年)7月、労働総括政務次官に就任(12月6日、退任)。


★SOCCER COLUMN

記録男のナンバー1
*日本代表最多得点(Aマッチ)75試合72得点
*日本代表最多得点(親善試合、対クラブ試合を含む)241試合168得点
*メキシコ・オリンピック(1968年)最多得点、6試合7得点
*ムルデカ大会(1972年)最多得点、6試合7得点
*日本サッカーリーグ(1967〜1974年)最多得点、251試合202得点
*日本サッカーリーグ最多アシスト251試合79アシスト
*日本サッカーリーグ・東西対抗最多得点、西軍13試合21得点
*日本サッカーリーグ最多得点王、7回
*日本サッカーリーグ最多アシスト王、3回
*関東大学リーグ得点王、連続4回

カマモト、カマモト、世界の評価
「彼が参加していたら、世界選抜チームはペレのいるブラジル代表に勝てただろうに──」(1968年秋、対ブラジル戦に出場した世界選抜のGKレフ・ヤンソ=ソ連)

「日本の少年たちは、立派な手本であるカマモトに学べばよい」(1984年、釜本の引退試合に参加したペレ)

「日本代表の強化策? ナンバーワンの選手を使えばよいじゃないか」(1980年日本代表と対戦したヨハン・クライフ。釜本が代表に入っていないのを見て)

「引退試合に6万人も集めるなんて、驚くだけだ。こういう試合でもゴールするのだから…」(1984年、釜本の引退試合に参加したヴォルフガンク・オベラーツ=西ドイツ)

「グレート・カマモトと、うちの若いDFでは──やられてもしょうがない」(1979年、ニューヨーク・コスモスのマッカセイコーチ。彼に同点ゴールを決められて)


★OTHER COLUMN

おめでとうイチロー
 マリナーズのイチローの新人王とMVP受賞──おめでとうございます。名古屋の生んだ彼がメジャーリーグで素晴らしい活躍をし、全米ファンを楽しませ、驚かせたことは誠に痛快。その彼を世に送ったこの地方のスポーツファンにとっては、大きな喜びでしょう。
 私のように長くスポーツ記者をしているものには、イチローのプレーは若いころに教えられたアメリカのベースボールの原点「タイカップの野球スタイル」を思い出します。
 この人より後から現れたベーブルースによって、本塁打の華やかさがメディアをにぎわし、正確なプレーヒットで野手の間を抜き、ヒットエンドランや盗塁で進塁してゆくタイカップの野球が忘れられて、大型選手によるホームラン争いが大リーグを代表するかたちになっていたのが、日本人のイチローによって、それを思い出した──いわばチームゲームとしてのベースボールの原点、タイカップ時代への郷愁が、メディアとファンのイチローへの支持となっての人気であり、MVPであるような気がします。
 サッカー人の目から見れば、イチローのプレーはまた、日本サッカーの目指しているところともいえるでしょう。日本人として、決して小さくはない彼が、ヒットで出て、相手ファーストベースの選手と並んだときの体格の違いに驚きますが、それはそのまま、サッカーの国際舞台での日本選手と外国選手の体格の違いでもあります。サッカーではベースボールほどの大きさの違いはなくても、11月7日のイタリア戦でも見られたように、胸の厚さ、腕の太さなどに違いがあり、ヨーロッパでは小柄な方に入るイタリア人と比べても「力強さ」という点で劣るのです。
 その「力強さ」でのハンディを頭に入れて、技術の確かさ、敏捷性を生かし、相手を研究し、相手の戦術(チーム戦術も個人戦術も)に即座に対応する頭脳、そしてそれらを備えるために努力を重ねることが必要です。
 日本サッカーがこの連載でも紹介しているように1930年代、いや、それ以前から目指しながら、ときにはその方針に疑問を抱き、ときには努力不足で、70年以上を経てようやく世界に追い付こうとしているとき、イチローは自らの素質と努力、お父さんや学校のコーチなど、少数の関係者の支援によって自分のプレーを築いたのは、誠に感嘆すべきことです。


(月刊グラン2002年1月号 No.94)

↑ このページの先頭に戻る