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20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(中)

長身のスポーツ一家

 釜本邦茂の第一印象は背が高い──ということだろう。公称は179センチだったが、実際は182センチ、いまの日本代表FWたち、柳沢、鈴木、久保、平瀬などと比べても、彼より上背があるのは平瀬(184センチ)くらい。
 京都生まれの京都育ち、右京区太秦小学校に通い、洛中最古の寺、広隆寺の境内を遊び場にしていたころは、決して大柄な少年ではなかったが、蜂ヶ岡中学の2年生のころから急に身長が伸び始めた。
 1年生のときには、ユニフォームが大きすぎて、背番号の9の下の方がパンツに隠れ、背番号0に見えていたのが、年間で18センチも伸びたために、久しぶり会うものはよく見違えたものだ。180センチ以上のプレーヤーの中には、この急速な成長のときに無理な練習や試合で、ひざを痛めるものも多いのだが、釜本はこの時期にも大きな故障もなく成長していた。
 もともと長身の一家だった。明治42年(1909年)生まれの父・正作さんは奈良県橿原市の出身で、桜井市出身のヨシエさんと結婚して3男2女をもうけた。昭和9年(1934年)から京都で警察官を務め、昭和13年(1938年)から同17年(1942年)まで兵役に就き、ノモンハン事件を経て復員。幹部候補生から将校となり、陸軍中佐となっていた。昭和18年(1943年)に京都・太秦に新設された三菱重工京都製作所の青年学校の教官に迎えられた。若いころから剣道が強く三段まで進んだ。筋はよかったのだが、弁護士になろうと大学に通ったために時間が取れず、警察の勤務と両立できずに剣道をみっちりやれなかったのが心残りだったという。
 剣道に励んだ人は姿勢がいい。正作さんもいつも背筋を伸ばしていて、背の高いかっこいいお父さんだった。ヨシエさんも長身で、京都商業のテニス部のキャプテンだった長男・幸和も、卓球の上手な次男・欣晃もみなスポーツ好きで、長女・美佐子は小学校のころから勉強も運動会も学校の花形だったという。いまふうにいえば、スポーツ能力のあるDNAを持つ一家。日本では数少ない大型ストライカーを生み出す素地はあったといえる。


中学生のころから注目

 太秦小学校4年生のころからサッカーに親しむ。京都師範(現・京都教育大学)のOBたちが市内の小学校でサッカーを教えていたから、京都では大戦後も小学校でのサッカーは盛んな方だった。太秦小学校は校長の意向もあり、昭和20年代の京都クラブの名選手だった池田璋也が先生をしていたこともあって、クラス対抗や学年対抗が行なわれていた。
 すばしっこくって上手な邦茂少年は5年生チームのときに6年生チームに勝つなどして注目され、6年生のときの学校対抗は1試合に4点を取ったこともある。池田先生にとっては、邦茂より1年上の二村昭雄とともに「気になる子ども」だった。
 昭和32年(1957年)4月、小学校から蜂ヶ岡中学に進んだ。2年生には二村がいた。
 京都のサッカー指導者の間では、この2人が話題に上るようになった。もっとも釜本は中学に入るころに野球をしようかと思ったこともあった。小学校のソフトボール大会でも彼は強打者だったし、なんといっても野球全盛の時代、あこがれるのも無理はない。
 サッカー部に入ったのは池田璋也先生の「サッカーが上手になればオリンピックもあるし、世界中に行ける。野球だったら日本とアメリカだけだ」という言葉があったからだという。
 3年生のときにはキャプテンになり、京都だけでなく、京都、大阪、神戸の3都市の大会にも優勝した。蜂ヶ岡に釜本という点を取る選手がいる──という話は、京阪神の指導者の間で話題になり始めていた。


山城高校、1年で国体優勝

 昭和35年(1960年)に京都府立山城高校に進学、二村も一足先に入っていた。彼の入学と同時に、京都教育大学を卒業した森貞雄が赴任してきた。サッカーの上手な若くて元気な監督の下で、山城高校はその秋の国体に優勝した。
 そのころの日本サッカーはどん底の状態だった。昭和31年(1956年)のメルボルン・オリンピックはアジア予選で韓国との2試合を制しながら、本大会では開催国のオーストラリアに0−2で敗れた。昭和34年(1959年)、東京で行なわれた第3回アジア大会では1次リーグで敗退した。そして昭和35年ローマ・オリンピックの予選も韓国に敗れた。4年後には東京オリンピックが控えている。開催国の日本は予選なしで出場できるが、国民の前で1勝もできないようでは日本サッカーは立ち上がれなくなるだろう──サッカー協会挙げての強化策の一つとして、昭和35年夏にヨーロッパとアジアへ、二手に分けて代表候補チームを武者修行に送り出した。設備のいい海外でみっちり練習を積み、試合経験を重ねること、これを4年間続けることで、代表のレベルアップを計ることが目的だった。さらにもう一つ、西ドイツからプロフェッショナルのコーチ、デットマール・クラマーを招いて、代表チームの指導に当たってもらうことにした。


クラマーとの出会い

 クラマーは代表候補の一人ひとりの個人技の上達を計り、チームの戦術を教育した。全国を巡回し、各地域の若手選手にも目を向け、地方の指導者たちを啓発した。昭和36年(1961年)、京都でクラマーは講習会に参加したヒョロリと背の高い釜本邦茂を見た。大学生以上の年齢を対象にした講習会だったが、当時の京都サッカー協会の藤田信夫会長(後に日本サッカー協会会長、現・名誉顧問)の特別の計らいで、高校生の釜本が二村とともに参加していた。
 このときクラマーは彼の素質を見抜いていた。「カマモトをどう思うか」との私の問いに「素晴らしい。だが、スピードをつけ、敏捷性を増さなければならない」と答えた。釜本自身も、このときのクラマーとの出会いをよく覚えている。小柄なクラマーのヘディングのボールの強さに驚き、その教えを真剣に聞いた。
 高2で迎えた昭和37年(1962年)の全国高校選手権大会で、彼と山城高校は破竹の勢いで決勝まで進んだ。第40回大会を記念して32チーム出場となったこの大会で、京都代表の山城校は1回戦で日立一高(東関東)を5−0、2回戦で中津東(北九州)を8−0で破った。前年の大会に高1で出場していた彼は、大きな体にまだ筋力が伴わず、動作は遅かった。ただし、ボールを扱うときの柔らかさとフォームの美しさに、私はしばらく見とれたものだった。
 40回大会で釜本の動作は相変わらずゆっくりに見えたが、実際は走れば速く、蹴るシュートには力があった。準々決勝でサッカーどころ浦和市立と戦い、延長の末、彼のシュートで2−1。準決勝は兵庫の関学高を3−0と退けた。決勝の相手は広島の修道高。のちに早大と日本代表で仲間となる森孝慈がいた。釜本にとっての不運は二村が負傷して満足にプレーできなかったこと。彼のひざから下の小さな素早い振りから出るタイミングのよいパスがなければ、釜本のシュート力も生きなかった。


東京オリンピックに間に合うか

 この年の西宮での釜本を見ながら、私は記者仲間であり、日本代表のコーチでもある岩谷俊夫(毎日新聞、故人)と「東京オリンピックに間に合いそうだねえ」と喜び合った。
 メルボルン・オリンピックの直前に、高校サッカー界から素晴らしいCF(センターフォワード)が現れながら、結局はうまくいかなかったことがあり、その後の代表チームの不振の原因の一つとも考えられていたから、東京オリンピックにこの大器が成長して、活躍してくれることを心から願っていたのだった。
 もっとも、メルボルン・オリンピックのころよりも日本サッカーの若年層強化は進んでいた。昭和35年から始まったアジア・ユース大会に毎年、高校選抜チームを送り込んでいた。この年齢層で海外に出かけて試合するのは、ほかの競技ではなかったころで、全国の高校サッカー選手の励みになっただけでなく、参加した選手たちもアジアとの交流がステップとなった。釜本は高2、高3と2回続けて日本のユース代表として日の丸をつけて戦い、「国際試合」でゴールを奪う経験を積んだ。
 昭和38年(1963年)、高校を卒業すると早稲田大に進んで商学部に入った。進学の路線を決めるのには部長の村山康裕先生や早大の先輩でベルリン・オリンピックのCFだった川本泰三(故人、当時は関西サッカー協会理事長)などのアドバイスがあった。
 早大サッカー部には工藤孝一(故人)という名物監督がいて、厳しい練習で有名だった。その早大で1年生からレギュラー、秋の関東大学リーグで早大は優勝、彼は11得点(7試合)を挙げて、リーグ得点王になった。東京オリンピックまであと1年に迫っていた。


★SOCCER COLUMN

野球をしていれば王か長嶋?
 中学校では野球をやろうかな──と思ったこともある釜本。それをサッカーに引き戻したのは太秦小学校で、姉・美佐子の担任だった池田璋也先生。あるとき母親のヨシエさんから「邦茂は中学校に入ったら、野球部に入ろうと思っている」と聞いて、「野球は日本とアメリカだけのスポーツ。サッカーはオリンピックもあるし、上手になって日本代表になれば世界中に行けるから、ぜひサッカーを続けるように言ってほしい」と言ったという。この言葉が効いたのか、蜂ヶ岡中学でもサッカー部に入った。
 30年後──現役を引退したあと、頼まれて伊豆にある野球学校でスピーチをしたとき、「ボールを打ってみないか、と誘われてバッターボックスに入った。プロ志願の高校生の投げた球は速かったが、2球ほど見送って目を慣らし、次の速球にバットを振ると、ボールははるか遠くへ飛んでいった」。見ていた江藤慎一校長(元・中日)が「ホームラン。やっぱり釜本さん、野球をしていたら王か長嶋のようになっていた」と言った。

釜本のチームタイトル
●ヤンマー
 日本リーグ優勝 4回(1971、74、75、80年)
 天皇杯優勝 3回(68、70、74年度)
 同準優勝 5回(71、72、76、77、83年度)
 タイ・クイーンズカップ 優勝(76年)
 日韓リーグ1位対抗優勝 2回(76、81年)

●早大
 関東大学リーグ優勝 3回(63、65、66年)
 大学王座優勝 2回(63、65年)
 大学選手権優勝 1回(66年)
 天皇杯優勝 2回(64、67年)

●日本代表
 64年東京オリンピック・ベスト8
 68年メキシコ・オリンピック3位
 アジア大会 66年バンコク大会3位
         70年バンコク大会4位
 ムルデカ大会 2位1回(76年)
           3位1回(72年)
           4位1回(75年)


(月刊グラン2002年2月号 No.95)

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