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20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(下)

 2002年のワールドカップを前に「どこが優勝するのか、日本は1次リーグを突破できるか」といった予想がしきりです。私自身も「××フォーラム」といった集まりで話したりしますが、そのときに付け加えるのは「この後、半年の間で、大幅に伸びるプレーヤー、ステップアップするプレーヤーが出れば予想は狂うこともある」ということです。
 日本でも、ある時期の稲本潤一や小野伸二、中田英寿たちの成長に目を見張った覚えのある方も多いはずです。世界の情報が瞬時に飛び交う現在のサッカー界では、こうした個人能力の“伸びしろ”と仲間との組み合わせによって、チーム力の大幅な上昇もあることを忘れてはなりません。日本サッカーのオリンピックでの唯一のメダル、1968年(昭和43年)メキシコ大会の栄光も、その直前の釜本邦茂の個人力アップなしでは考えられないからです。
 日本サッカーが現在の“かたち”になるまでの年月の中で、そのときどきに大きな影響を与え、“いま”につなげた人たちを記事にする連載『このくに と サッカー』は2002年1月号から「20世紀に日本の生んだ世界レベルのストライカー、釜本邦茂」に入り、今回がその3回目。彼がいよいよ日本代表として活躍するところです。


東京オリンピックのCFに間に合う?

 1964年(昭和39年)1月27日、釜本邦茂は日本代表候補に入った。この年の1月12〜15日まで神戸の王子運動場で行なわれた第43回天皇杯で早大は、1回戦で東洋工業を倒し(2−1)、準決勝で関西大学を2−1、決勝で日立本社を3−0で破って優勝した。早大にはDFの西山、MF森、二村、FWに桑田、松本、釜本と代表候補が6人もいた。釜本は1回戦で1得点、準決勝で2得点したが、最も印象に残ったのは1回戦でペナルティエリア右を縦に破って出て、中へ短いクロスを送ったときの速さと、その速いプレーの中でのキックのときの形の美しさだった。
 前年秋のオリンピックのリハーサル、ベトナムと西ドイツ・アマチュア選抜を招いての大会で、釜本は日本B代表のセンターフォワードで出場した。このときは、味方のゴールキーパーの蹴るロングボールの落下点に入ってヘディングを取るのが上手になっているのに、大学での成長を見た。
 日本サッカー協会の第一指導部長だった友人の岩谷俊夫に「どうやら代表のCFは決まりだね」と言ったことを、いまでも覚えている。もっとも「技術委員の中でも、まだ慎重な人がいてね…」と彼は答えたのだが──。
 1964年2月の東南アジア遠征が、釜本には初の代表チームでの海外試合だった。彼は遠征第2戦(2月21日)のタイ空軍戦(1−3)から出場、25日の第3戦、セランゴール州選抜で初ゴールした。19歳10ヶ月だった。
 タイ、マレーシア、シンガポールでの各2試合、合計6試合での4勝1分け1敗という東南アジアでの地元チームを相手にした勝ち越しは、東京オリンピックに向けてのチームの進歩を示すとともに、初登場の釜本も5試合4得点(総得点10)を記録した。
 オリンピックチームは4月から6月の3ヶ月間、候補30人が千葉県検見川の東大グラウンドで合宿し、ここから会社、大学へ勤務、通学しつつ、基礎体力、基礎プレーの反復練習を続けた。大学2年、20歳になったばかりの釜本にとっても、この期間のサッカー漬けの毎日と体力トレーニング、基礎技術の練習は大きなプラスとなった。
 合宿の後には長期のソ連、ヨーロッパ遠征が組まれていた。7月17日からシベリアを経てソ連国内で4試合、ルーマニアで2試合、ハンガリーで1試合、チェコで1試合の後、西ドイツで8月21日から9月5日までに3試合、最後に9月8日、スイスで1試合を行なった。ソ連、東欧圏は1952年(昭和27年)のヘルシンキ大会以来、オリンピックの上位を独占していた。いわゆるステートアマの代表チームは西ヨーロッパ、南米のプロ代表にも匹敵する力があり、これらとの試合で力を付け、スイスでの最終戦では名門グラスホッパーに快勝(4−0)して、現地の新聞評でも「日本はパス・アンド・ゴーのモダンサッカーの手本を示した」とまで書かれた。オリンピックの1ヶ月前に、ようやくヨーロッパ勢を相手に、自分たちが自信を持てるスタイルを身につけた。
 釜本はレギュラーだった渡辺正の故障もあって、第4戦からCFのポジションに入り、以後8試合で4得点。


好成績でも自分のゴールがなければ…

 東京オリンピックの日本サッカーの第1戦は10月14日、雨の駒沢競技場、相手は南米の“大国”アルゼンチン。
 満員の2万観衆の注視の中で、アルゼンチンが前半1−0とリードしたが、日本は後半9分に杉山がドリブルシュートで同点ゴール。八重樫のドリブルからのスルーパスで生まれたチャンスだった。11分にまたアルゼンチンがリード、しかし36分に釜本の左からのクロスを川淵がダイビングヘッドで2−2。これで動揺したアルゼンチンに対して、1分後に勝ち越しゴールが生まれた。川淵のシュートをGKが防いだが、そのボールを小城が決めたのだ。
「1936年(昭和11年)のベルリン大会以来、28年ぶり、しかも3−2の逆転勝ち」──と翌日の新聞は大きく報道した。
 日本のDグループは、イタリアがプロ問題で出場を辞退しているグループだった。アルゼンチンはすでにガーナと1−1で引き分けていたので、1勝の日本は16日の第2戦に引き分ければ、D組の首位で準々決勝に進めるのだが、対ガーナ戦は初戦ほどの勢いが見られず、2−3で敗れてしまった。
 開催国として、ともかく1勝をというプレッシャーの中での逆転勝ちで、ホッとしたのだろうか、中1日の休養で疲れが取れなかった(ガーナは中3日の休養)こともあったかもしれない。雨の多い東京大会の中で、快晴、気温上昇のこの日は、ガーナを勢いづけたともいえる。後半7分に2−1とリードしながら逆転されると、それを覆す力は日本にはなかった。こうした1次リーグを戦い抜くとき、初戦の勝利の後、第2戦は最低でも引き分けにしておくという“執着心”ができるのは、やはり経験、次のメキシコ・オリンピックまで待たなければならなかった。
 準々決勝でチェコに完敗した日本代表は、5、6位決定戦の大阪トーナメントでも強豪ユーゴスラビアに1−5で敗れたが、このゴールは釜本のオリンピック初ゴールとなった。
 後に“東京”を振り返って、「ベスト8に進出した一員としてうれしかったが、何か物足りなかった。3試合で1点も取れなかったからだ」と釜本は言っている。


アジアのレベルを越えるために

 そうしたゴールへの飢えがゴールへの意欲を高め、卒業するまで関東大学リーグで常に得点王を譲らなかった。
 代表では1966年(昭和41年)12月の第5回アジア大会(バンコク)で、6ゴールを挙げて3位入賞に貢献した。1967年(昭和42年)春、卒業と同時に大阪ヤンマーディーゼルに入社。東京オリンピックの翌年からスタートした日本サッカーリーグで、2年間下位にあったチームを選んだのは、生まれ育った関西で弱いチームを強くするのに力になりたいという気もあったからだが、西ドイツへ単身留学できることも魅力のひとつだった。
 釜本が加わったこと、それに併せて大量の新人補強をしたことでヤンマーは日本リーグの“目”となったが、その1967年はメキシコ・オリンピックの予選の年だった。アジア第1グループ予選の東京トーナメントは、6ヶ国による1回戦総当たりのリーグで行なわれ、日本はフィリピン(15−1)台湾(4−0)レバノン(3−1)を破り、第4戦で韓国と引き分け(3−3)最終戦でベトナムを破り(1−0)4勝1分け。得失点差で韓国を抑え、メキシコ大会の出場権を獲得した。すでにチームの中核となっていた彼は、フィリピン戦の6ゴールをはじめ合計11得点を挙げた。
 ただし、韓国戦は2−2の後、「あれほどマークされていたのに」と相手のコーチを嘆かせるゴールを奪いながら、ベトナム戦では密着マークに苦しみ、得点できなかったところにまだ問題があった。
 アジアではすでに注目されていたこのストライカーのもう一つ上への成長には、何かの刺激が必要──ヤンマー入社のときから懸案の西ドイツへの単身留学は、1968年1月からの2ヶ月間に行なわれた。日本リーグや代表の試合のない期間を利用しての短い間だったが、ヤンマーの山岡浩二郎総監督は、秋に西ドイツに出向き、デットマール・クラマーや岡野俊一郎コーチ(現・日本サッカー協会会長)の取り計らいで、ザール州協会のノイバーガー会長を訪ね、同州の協会のデュアバル・コーチにも会って、釜本の指導を依頼していた。
 サッカーのようなチーム競技の選手が、単身で海外に渡って研修するといった考え方は、それまでにまったくといっていいほど考えられなかったこと。「個人技のアップはチーム力強化の第一歩」を信条とするベルリン・オリンピック(1936年)のストライカー、川本泰三氏の発案による釜本の単身留学は、日本サッカーでは「コロンブスの卵」といえたが、これが大きな成果となって、メキシコでの好成績につながることになる。


★SOCCER COLUMN

ゴールキーパー泣かせ
 1967年(昭和42年)11月19日のヤンマー対日立戦(和歌山)で、日立のゴールキーパー・片伯部(かたかべ)は釜本と衝突して負傷退場した。日立はそれまでに2人の選手を交代させていたため、GKの控えを起用できず(当時のルールによる)、FWの海野が代役を務めた。しかし、海野は7分後に釜本の強いシュートを止めようとして手を出し、右の手のひらに裂傷を負って退場してしまう。
 3人目のGKもFWの平沢敬作。ケガはしなかったが、慣れない平沢はオーバーステップの反則を取られ、このFKから釜本のヘディングでゴールを奪われ、結局0−3で日立は敗れてしまった。リーグ1年目の釜本の勢いを物語るGKの受難劇だった。

200ゴールは左足、リーグ初ゴールはヘッド
 日本サッカーリーグで釜本は1967年から1982年(昭和57年)までの15年間、251試合で202得点を記録した。その初ゴールは1967年4月9日、大阪・長居での開幕戦、対豊田織機、前半23分の右CKの水口のキックを、ゴール正面やや左寄りでジャンプ、ヘディングしてゴール右隅に決めている。この日は後半25分にも相手DF2人をドリブルで外して、シュートを決めている(試合は3−2で勝ち)。
 記念の200ゴールは、1981年(昭和56年)11月1日、神戸中央球技場(現・神戸ウイングスタジアム)の対本田戦。左サイドからのグラウンダーのパスをいったん外へ開いたポジションからニアに走り込み、左足のシュートを決めた。この日はヘディングで201点目も記録、82年シーズンは5月20日の試合(対マツダ)で右アキレス腱を痛めて8試合に終わるが、その5日前の対日立(大阪・長居)での1ゴールが202点目、彼のリーグでのラストゴールとなった。


(月刊グラン2002年3月号 No.96)

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