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20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(続)

西ドイツ留学の成果

 1968年(昭和43年)1月18日、23歳の釜本邦茂は西ドイツに飛んだ。行き先はフランスとの国境に近い、南西部のザールランド州・州都ザールブリュッケン。人口20万ばかりの中都市だが、立派な設備のあるスポーツシューレ(スポーツ学校)があった。この州の協会会長が、後に西ドイツ協会の会長となるヘルマン・ノイバーガーで、スポーツシューレの主任コーチはユップ・デュアバル。後に西ドイツ代表監督をも務める同コーチの下での、わずか2ヶ月間の練習で、彼は驚くべき変貌を遂げる。
 ボールを止め、コントロールし、シュートする。この一連の動作にこれまで時間がかかっていた。「日本の選手はボールを受け、トラッピングをして、前を向いてシュートするのに、1、2、3(イチ、ニ、サン)という調子だ。ドイツの選手は、1、2でやる。しかし、ブラジルの選手はすべてを1(一運動で)やってしまう」とはクラマーの言葉。釜本はこの西ドイツの若手プロばかりの練習で、彼らの激しさにもまれて、自らのプレーの早さを磨き、ミスをなくすことを体で覚えた。
 この年の3月、日本代表は、メキシコ、オーストラリア、香港を転戦した。
 3月26日のメキシコ・アステカ・スタジアムでの試合は、日本チームが高地の影響を受けて動きが鈍く、0−4の完敗だったが、オーストラリアに移っての3連戦は1勝1分け1敗と互角。釜本はチーム総得点6のうち4ゴールを挙げて現地メディアに注目された。自らサッカー専門誌を発行するアンドレ・ディットレ記者が「日本にジョージ・ベスト(マンチェスター・ユナイテッド)やハースト(66年W杯イングランド大会の決勝でハットトリックを果たした)に匹敵するストライカーが現れた」と称賛した。


アーセナルを驚かせるゴール

 イングランドの名門、アーセナルが来日したのは、1968年の5月。23日(国立)26日(福岡・平和台)29日(国立)と3戦した。すでに80年を超える歴史を持つこのチームの第14代監督バーディー・ミーは、就任後2シーズンを経て着々と強化を図り、1953年(昭和28年)以降途絶えていた優勝に近づいていた(1970−71年に2冠)。イングランドのトッププロの直截簡明なサッカー、ボールを取ればゴールに向かう、その早さと勢いは個々の技術と体力に裏打ちされていて、到底アマチュア日本の相手ではなかった。1−3、0−1、0−4のスコアはそれを物語っているが、東京での第1戦で、キックオフ直後に相手の速攻で1点を失った後に生まれた日本のゴールは、釜本の伸びと、それを生かせるようになった代表チームの進歩を示すものだった。
 右からの渡辺正の早いクロスに対して、シンプソン、ニールの2人のDFの間に入ってきた釜本は、ニアのシンプソンの頭上を越えたボールにダイビングして落下点を見事にとらえてヘディング。クロスに対する位置取りをしていたGKウイルソンは、ニアサイドの釜本のダイビングヘッドに反転が遅れて、ニアを突かれ、ボールはネットに飛び込んだ。
 クロスに対してニアで合わせて、ヘディングするイングランドのスタイル。そのお株を奪う釜本のゴールだった。このとき彼をマークしたCDFのニールは後に第15代監督になるが、彼は帰国するとき「日本にカマモトのような選手がいるとは考えもしなかった。よろしく伝えてくれ」と言い残している(ついでながら、日本になじみ深いアーセン・ベンゲル現監督は19代目となる)。


杉山との間の見えない糸

 7、8月のソ連、東欧、オランダ、西ドイツでの試合と練習の後、日本での高地トレーニングを行ない、米国カリフォルニアを経て、メキシコに乗り込んでいくのだが、彼らが羽田を出発する日、私は杉山隆一からこういう言葉を聞いた。「今度は私もやりますからね。まあ、見ていてください」
 これは、しばらく調子の上がらなかった彼が、コンディションを取り戻したことと、もう一つ、チームでの役割分担で、彼が釜本へのパスの供給役にまわる──その仕事を全力でやるという意味だった。
 彼の動物的なゴールのカンも素晴らしいが、代表チームでは成長し、右も左もヘディングも信頼できるシューターとなった釜本へのパスの出し手として、杉山がその能力を発揮することが求められたのだった。いわば助役にまわる仕事を、彼は引き受けることをしたのだった。その杉山の仕事は「杉山と釜本の間に目に見えない糸がつながっていて、その上をボールが通って、釜本に到達するようだ」と岡野俊一郎コーチ(現・日本サッカー協会会長)がリポートに記しているように、パーフェクトに果たされた。
 メキシコでの日本の9得点のうち、釜本は7得点。そのうち、相手GKのキックを拾ってのロングシュートと長いドリブルシュートが各1、パスを受けてのシュートの得点は5、うち4点が杉山からのパス、もう一つは杉山、八重樫と渡って、八重樫からのパス。釜本は渡辺正の2ゴールをアシストしているが、その一つは杉山からのクロスをヘディングで落としたもの。
 そしてまた杉山は「攻めの基点となる自分のところへ、テルさん(宮本輝紀)たちが、受けやすいボールを送ってくれたのも大きい」と言う。総合力で劣る日本代表が厚くなり、カウンターで釜本を生かす──その役割をそれぞれの選手が果たしたということになるだろう。
 一人のストライカーの成長と、それを生かすチーム戦術によって、1960年(昭和35年)ごろはアジアでも下層にあった日本が、1968年にはナイジェリア、ブラジル、スペイン、フランス、ハンガリー、メキシコといった国々を相手に、オリンピック本番で、銅メダルを獲得するまでになった。
 この銅メダルチームは、1970年(昭和45年)のワールドカップ・メキシコ大会に挑戦した。しかし、1969年(昭和44年)に釜本が肝臓障害を患って、入院治療。彼を欠いた代表チームはアジア予選で敗退した。
 病気から回復した釜本は1974年(昭和49年)ごろから円熟期に入るが、杉山はすでに1971年(昭和46年)に代表を去り、このペアの世界のひのき舞台へのチャンスはなくなっていた。
 ゴールを奪うことに生きがいを持つ釜本の選手人生は、1980年(昭和55年)のヤンマーのリーグ優勝を最後のピークに、1981年(昭和56年)のリーグでの200ゴール達成の記録をつくるまで続く。この後、負傷を重ね、回復しては出場するけれど、1984年(昭和59年)元日の天皇杯決勝が最後となった。その記録や業績については別の機会とし、今回はオリンピックという国際舞台での彼の半生を主とした。
 1984年8月、彼の引退試合がヤンマーディーゼル主催、日本協会、日本リーグ後援で行われた。ペレ(ブラジル)オベラーツ(西ドイツ)などの名選手が応援出場し、6万人の大観衆が彼との別れを惜しんだが、そのプログラムに記されていた「いま、なぜ釜本なのか、このようなストライカーが、どうして60年代に育ったのかをあらためてこの機会に見つめ直すことが、日本サッカーの復興につながるハズだ」との引退試合のテーマが、果たされたのかどうか──。


★SOCCER COLUMN

デュアバルとの出会い
 ヨーゼフ・デュアバル(JOSEF DERWALL)通称・ユップ・デュアバルは、1927年(昭和2年)3月10日生まれ。クラマーより2歳若い。現役時代、アルメニア・アーヘンやフォルトゥーナ・デュッセルドルフなどでプレーし、西ドイツ代表の経験もある(2試合)。ザールランド州コーチ(1964〜70年)を務めた後、1970年(昭和45年)から8年間西ドイツ協会のアシスタント・コーチとなり、1978年(昭和53年)シェーン監督の引退の後を継いで西ドイツ代表監督となり、1980年(昭和55年)欧州選手権優勝。1982年(昭和57年)ワールドカップ準優勝の成績を挙げたが、1984年(昭和59年)欧州選手権大会1次リーグ敗退の責任を問われて去り、トルコのガラタサライの監督を5年間務めた。
 現役時代にストライカーであった同コーチに、いい時期に会えたのも釜本の幸運の一つ。「カマモトは背が高く、技術もあって、いい選手だった。彼にはシューターの心構えなどについてよく話した。代表チームの遠征に合流することもあって、体づくりの必要もあったから、毎日、自転車に乗って、彼が走るのについていったものだ」と言っていた。
 1980年にスペイン・バルセロナで行なわれたユニセフのチャリティ試合に釜本が招かれたときにも、バルセロナと対戦した世界選抜の監督がデュアバルで、監督はクライフやプラティニ、ボンノフたちそうそうたるメンバーの中で、後半に釜本を出場させ、彼にとっても新たな栄誉を加えた。

引退試合
 1984年8月25日、午後7時キックオフの「釜本邦茂引退試合」、ヤンマーディーゼル対日本リーグ選抜は、東京・国立競技場で6万人の観衆を集めて行なわれた。
 アマチュアには引退はない──という意見もあったが、日本代表の不振からリーグも代表の試合も観客数が少なくなり、低調なサッカー界に勢いを取り戻すためには、釜本のようなプレーヤーを生み出すこと。そのためにも、多くのファンに喜びを与えた彼に、皆がもう一度拍手を送ろうというのが引退試合の趣旨で、同時に、こういう選手がどうして育ったのかを、あらためて見つめ直すことで、選手育成のヒントを探してほしいとの願いもあった。
 彼の所属クラブであるヤンマーの主催で、日本協会と日本リーグの後援というかたちをとり、リーグ選抜のほうが当時のヤンマーより大幅に力が上であるのを考慮して、ゲスト・プレーヤーにペレ(ブラジル)とオベラーツ(西ドイツ)を招いた。ペレはすでに43歳を超え、フルタイム出場は無理だったが、オベラーツは現役並みの評判通りのプレーを見せ、釜本のゴールをおぜん立てした。釜本の先制ゴールがあり、ペレやオベラーツが彼を抱き上げるシーンなどがあり、国立競技場は釜本コールが長く続いた。


(月刊グラン2002年4月号 No.97)

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