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日韓共催で胸に去来するもの

かかわり深い韓国で

 ワールドカップの旅の連載を始めます。私にとって8回目の大会取材地は、日本と韓国という、二つの最も縁の深い国になりました。
 神戸に生まれ育ち、少年時代からサッカーに親しんだ私には神戸一中(現・神戸高校)にいたころから、全国大会で顔を合わせる、当時の朝鮮地方の代表チームは尊敬に価する強力なライバルでした。昭和13年(1938年)には2歳年長の兄・太郎(4年生)が崇仁商業と試合し、昭和16年(1941年)の明治神宮大会では、5年生だった私が普成中学と対戦、1年後輩の岩谷俊夫主将のとき(昭和17年)も明治神宮大会で培材中学とプレーしました。
 そして大戦中、陸軍航空のパイロットとなった私は、413飛行隊の「と号(特攻)隊」の演習に励んだのが北朝鮮の黄海に面した海州市の迎陽飛行場であり、敗戦後、2カ月を過ごしたのが鳥致院という小さな町でした。
 そうした韓国と日本をとび歩く旅です。いささか忙し過ぎるスケジュールですが、古稀を過ぎて迎えたせっかくのチャンスです。皆さんとともに楽しみたいと思っています。今回は開幕前の、韓国での小旅行です。


日・英・中国語のアナウンス

「この列車はカンジュ(光州)行きです。停車駅は8時18分チョナン(天安)、8時38分チョウチウォン(鳥致院)…」
 ハングルに続いて、英語、日本語、中国語のアナウンスがあった。
 2002年5月30日の朝、私はソウル駅発午前7時25分の京釜線の特急セマウルの6号車に乗っていた。
 一人旅には、いつものことながら多少の緊張と不安がついてまわるが、車内アナウンスに日本語や英語があるとなると、韓国鉄道のサービスに感心しつつ、ホッとする。
 それにしても忙しかったナ、と出発前の一カ月を振り返る。
 日本での開催というので仕事の量は増えた。朝日新聞がオフィシャルペーパーになって火をつけた大新聞のサッカー戦争は、開催地を持つ地方版(県版、府下版)に及んだ。朝日や読売への寄稿や、新聞やテレビに取材されることが増えた。
 新聞人は、日韓サッカーだからと1954年のワールドカップ予選に始まり、そこから、いまに到るのだが、1954年以前の、日本の統治時代に及ぶものもあった。ベルリン五輪の金容植さん(故人)を書き、金さんしか選ばれなかったところに当時の日本での“差別”を描く図式もみられた。
 面白かったのは、そこから踏み込んで、神戸一中が昭和13年から17年までの間に、朝鮮地方代表と3度戦って2勝1分けという記録にいきあたり、二つの新聞と一つのテレビが神戸一中を取り上げようとしたこと。もっとも、こういう話になると、こちらにお鉢が回ってくる。楽しくはあるが、またつらくもあった。


万葉けまりの創設

 というのは神戸のファッション美術館での「サッカー・ユニフォームとトラディショナル・コスチューム展」や奈良の「万葉けまり」の企画にかかわり、もっと勉強する必要もあったから…。
「万葉けまり」というのは、数年前に談山神社で蹴鞠の奉納行事を見たときに、見事な紅葉の下での王朝絵巻に見とれながら、奈良のサッカー人・倉井三郎に、私が「これより、もう一つ古い時代の蹴鞠を考えてはどうか」と言ったところから始まったもの。
「この奉納蹴鞠は平安期からのもので、京都の蹴鞠保存会の努力によって伝統の様式が再現され保存されている。だが、藤原鎌足を祭る談山神社を持つ奈良のサッカー人ならば、鎌足が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、のちの天智天皇と蹴鞠によって出会い、クーデターの謀議を蹴鞠会にかこつけて行なったという歴史伝説がある以上、そのころの蹴鞠、おそらく、公卿時代の様式とは別のものを考える値うちがあるのでは」
 この提案を倉井氏が中心になり、NPO奈良21世紀フォーラムの行事として、古代史の権威・猪熊兼勝(いのくま・かねかつ)さんたちの教えも受け、衣装とルールを作った。5月4日に談山神社に奉納され、その模様はテレビや新聞で報道された。
 古い蹴鞠を考えるためには、中国の黄帝や漢の時代にまでさかのぼり、また世界各地にある古い形のフットボールをも知らなければならず、中国からのルートである古代朝鮮もと調べ始めると、あらためてわが身の知識の浅いのを思い知った。
 そんな日々がアッという間に過ぎ、いま私はソウル発の列車に乗っている。私の回想を破って何やら大きな声の人が車内を歩いてきた。弁当らしかったので見てみた。日本の駅弁とよく似ていた。

(週刊サッカーマガジン2002年6月15日号)

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