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旧友の死から思い起こす、両国のきずな

 波乱いっぱいの2002年のワールドカップは、いよいよ大詰めとなり、決勝はブラジルとドイツという“王国”同士の対決となりました。この号が出るころには、チャンピオンは決まっているはずですが、伝統の2強、どちらが勝っても“サッカーらしい”決勝を見たいものです。
 さて私のワールドカップの旅は、いよいよ韓国での開幕試合に入るところですが、その前に、エピソードを一つ紹介しておきます。というのは、今回のテーマの一つである韓国(朝鮮半島)と日本とのフットボールのつきあいにも、かかわりがあるからです。

日・韓戦の岡田吉夫

 6月23日の朝、サッカー仲間の山路修(やまじおさむ・日本サッカー後援会事務局長)から電話があった。「岡田吉夫(おかだよしお)さんが22日夕方に亡くなりました」という。
 山路は1929年(昭和4年)8月31日生まれ、旧制神戸一中(現・神戸高校)を出て早大でプレーし、1954年のワールドカップ予選、あの初の日本・韓国戦の第1戦でプレーした。
 岡田吉夫は、山路より3歳年長で1926年(大正15年)8月11日生まれ。やはり神戸一中から神戸高等工業を経て早大に進み、大戦直後の早稲田のサッカー再興期にプレーし、例の日・韓戦では、第1、2戦ともに出場、アジア競技大会には第1回(1951年、ニューデリー)、第2回(1954年、マニラ)の代表でもあった。
 長身で、強いキックのできる彼は中学生からDFだったが、突進力もあって早大では左ウイングで活躍したこともある。
 山路修は、日・韓第1戦(1―5)のあの薄氷の張る悪条件のグラウンドで、スライディングタックルを敢行し、濡れた体が試合中に寒さで硬直したという話の持ち主だが、岡田の方は晴天でグラウンド・コンディションの良い第2戦(2―2)にも出場して、FB(フルバック)の位置からドリブルで持ち上がり岩谷俊夫(神戸一中、早大)のゴールを生んだという、チョッといい話も残すことができた。

薄れた意識の中で涙

 早大の女子サッカー部の監督を引き受けるなど、晩年にもサッカーと早稲田と縁のあった彼が2月に体調を崩した。かつて1度、脳梗塞(のうこうそく)となって回復したのだが、どうやら、今度は意識も無いようだと伝え聞いていたのだ。しかしごく最近に、産経新聞に連載された「神戸一中物語」を子息が耳元で読んで聞かせたら、目に涙を浮かべていたという。
「家人の顔も見分けられなくなっていたのに」とは、山路修の話。
 それにしても初の日・韓戦でたたかった岡田が息を引き取ったのが、韓国・スペイン戦のPK戦の最中であったとは――。
「いい式でした」と葬儀のもようを語ってくれた山路の声を聞きながら、この二人と、彼らがいた早大と韓国サッカーとの関係をあらためて思った。1936年ベルリン・オリンピックに、当時の朝鮮地方(現・韓国)から唯一人参加した金容植が、早大で一時期ボールを蹴ったことがあり、1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)まで、裴宗鎬が、そして次いで季時東が加わったことがある(いずれも故人)。
 
早大サッカー部と韓国

 岡田や山路たちは戦後の入学で、この人たちとの東伏見(早大グラウンド)での出会いはないが、私には二人とも懐かしい名前。そのころ漢字読みで裴(はい)さんと呼んでいたベ・ジョンホのすごいシュートは語り草だったし、昭和15年秋、私が中学4年生のときに明治神宮大会で優勝した季時東たちの朝鮮地方代表の中東中学校の強さは、同じ年の中学選手権(現・高校選手権)で勝った普成中学とともに、長く記憶に残ったものだ。
 そうした朝鮮地方の選手を受け入れたのは当時の早大の監督であった工藤孝一(故人・1909―1971)。日本のサッカーにも彼らの力の強さえお取り入れたいと考えていた人だ。裴宗鎬はその力量と人格で、昭和16年の早大の主将に推された。日本人の優秀さを強調したい陸軍や右翼の声の大きいなかでは珍しいことだったが、彼のキャプテンに異論を唱える者は早大サッカー部にはいなかったし、大学当局もまた反対しなかった。
 裴(はい)さんは1963年に亡くなるまで早稲田のキャプテンであったことを誇りにしていた。墓碑に「早大主将」と刻まれたというそのお墓を、この大会中にお参りしたいのだが…。
 彼ら日・韓の早大サッカー部の先輩たちは、今度の韓国のベスト4、日本の16強進出を、天国でどのように見ているだろうか。

(週刊サッカーマガジン2002年7月13日号)

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