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稲本潤一のゴールの余韻

関西人のワールドカップ

「稲本のゴールだったな」とあらためて思う。6月5日、早朝、西下する新幹線「のぞみ」の車中だった。
 前日のベルギー戦、2―2の引き分けで多少の不満を残しつつも、初戦を強チームと引き分けたことに安堵した。そしてまた、2ゴールのうちの一つを稲本潤一が決めたうれしさに、笑みがひとりでに浮かんできていた。
 ワールドカップ2002の取材第1クール、5月28日に始まるソウル行きと31日の開幕試合に続いての札幌、鹿島、札幌、さいたまと回った8泊8日の旅は、ひとまず終わり、この日はいったん芦屋に帰って、神戸でのHグループ、ロシア対チュニジアを見ることにしていた。
 わが家に帰るといっても、次の日の6月6日から再び3泊3日の韓国の3会場回りと、6月9日横浜での日本の第2戦が待っているのだが…。稲本のゴールに執着するには、わけがある。
 実はこの大会の1年前から朝日新聞大阪府下(市内)版と兵庫県(阪神・神戸)版に、共通の記事をと言われて、2週に1回のペースで書かせてもらった。その第1回が「見たい関西人のゴール」だった。

世界の舞台と川本、釜本

「関西のサッカーは古くからいいストライカーを生んだ。1936年のベルリン・オリンピックで、強豪スウェーデンに0―2とリードされたのを3―2とした逆転劇の口火となるゴールを決めた川本泰三(故人、1914―1985)は大阪の出身で、日本サッカーの、世界のヒノキ舞台での最初のゴールは関西人によって記録されたと言える。その32年後の1968年には、京都で育った釜本邦茂がメキシコ・オリンピックの得点王に輝いている。
 フランス大会ではブラジルから帰化した呂比須ワグナーと静岡人の中山ゴンの合作ゴールを見たけれど、今度の大会はメキシコから34年。関西人によるワールドカップのゴールをぜひ見たいものだ」――というのが、その記事のあらましだった。

ヤンチャ坊主の満足のキック

 1979年生まれの稲本は、高校在学中にG大阪でデビューし、17歳10ヶ月1日のJリーグ最年少得点の記録を持つ俊才だが、98年ごろに体が急速に大きく強くなって、若いうちにチームの中心選手になっていた。私が注目した第1のポイントは、長いボールを蹴ることができることだった。そして利き足の右だけでなく、試合中に左をもよく使ったこと(ミスパスも多かったが)、スケールの大きいドリブルができて、ジグザグの動きにも持ちこたえるヒザや腰の強さのあるのが、頼もしかった。
 2001年のファーストステージの後にアーセナルへ移り、さすがにスターがひしめくここでは、彼に目をつけたベンゲル監督も、すぐにはレギュラーに上げることはできず、稲本にはフラストレーションのたまる日々だっただろうが、そんな生活のなかで代表に合流するたびに、いいプレーを見せたのには、感嘆したものだ。
 負けん気の強い、関西でいう「ヤンチャ坊主」的だが、どこか、おおらかというか、アッケラカンとした性格にみえた。あるトークショーで一緒になったとき、「稲本クンは2002年は22歳、2006年は26歳の働き盛り、2010年のワールドカップでも、まだ30歳だから充分に働けるだろう。もっとも、2010年には、ボクは生きているかどうかは分からんがネ」と言ったら、彼は「そうですね」と応じたので、大爆笑となった。そして終わった後で、彼が言う、「きょうのトークで、あそこが一番うけましたネ」と。
 
飛び出すか、飛び出さないか

 関西人のゴールというだけではなく、彼のゴールがボールを奪った後の、「飛び出し」から生まれたものであることも、ちょっとうれしかった。これは守りの向上した(守備選手のボールテクニックもステップアップしている)大会で、ゴールを奪うためには「飛び出し」がまず第一という仮説を、大会前から立てていたからだ。その点から日本では森島寛晃のプレーが重大となるし、イングランドではオーウェンがキーとなるだろうと見ていたのだが、今回の日本はFW鈴木の相手ディフェンス・ライン裏への飛び出しと、稲本の第2列からの飛び出しが、それぞれゴールになったのが面白かった。
 メモを読み直し、書き足し、試合を振り返っているうちに、列車は名古屋を過ぎ、伊吹山に近づいていた。関西に帰ってきた。さて、きょうのロシアとチュニジア。北方、スラブと、かつてのカルタゴ、戦略家ハンニバルの末裔たちは、どんなサッカーを見せてくれるんだろうか――。

(週刊サッカーマガジン2002年9月25日号)

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