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黄善洪のダイレクト・シュート

韓国 2―0 ポーランド

「韓国が勝ちましたね」
「ポーランドは強い相手ではないから勝って当たり前と言えるが、初の1勝だから国中が沸いただろうね」
 ひとしきり、前日の隣国の勝利が話題となった。
 6月5日の午後、神戸ウイングスタジアム、Hグループの1回戦、ロシア―チュニジア戦のキックオフまでにはまだしばらく時間があった。
 6月4日、日本とベルギーと引き分けてから2時間後に、釜山でのDグループの第1戦で韓国がポーランドを2―0で破ったのだった。
 ヒディンク監督のもとで、よく訓練された韓国代表は、大会直前の対フランス戦で互角にわたり合って自信を深めた。しかし、第1戦の緊張は相当の重圧となったはず。その心理的な圧迫を解消する先制ゴールは、右サイドから季乙容(イ・ウリョン)が出したパスを黄善洪(ファン・ソンホン)が決めた。フルタイムのテレビでなく、ニュースの速報で見ただけだったが、彼らしくサラリとした、しかも丁寧なダイレクト・シュートだった。
 一般的に言って韓国のプレーヤーはスピードにのって走っているときは、強くいいシュートを打つが、立ち止まった状態のときは、どういうわけか、硬い感じになりシュートを失敗することが多い。しかし、黄善洪は突っ立ったままの姿勢でダイレクトで正確に蹴ることができる。その彼の特徴の出たシュートが、2002年大会での韓国の初ゴールとなった。54年のワールドカップ初出場以来、48年間に5回の大会に出場しながら、1勝もできなかった長い呪縛を解き放つきっかけともなった。
 彼が決めたダイレクト・シュートは、99年のJ1、C大阪対V川崎(現東京V)戦で決めたゴールが印象に残っている。彼に密着していた中沢のマークがずれたときだ。中沢はトラップしてシュート体制に入るのを想定していたようだ。そこを、止めずにシュートしたところに、黄善洪のうまさがあった。高速で走り込んでのシュートではなく、さり気なくシュート・ポジションに入り、ダイレクトでゴールを破ってみせたのだ。

美しいフォームと半身のうまさ

 韓国のサッカーの歴史のなかで優れたプレーヤーを数多く見てきたけれど、90年に21歳でワールドカップ・イタリア大会の代表となった黄善洪は、なかでもひと味違うストライカーと言える。後方からボールを受けるときのステップの踏み方、半身の体勢に入るうまさは、東アジアのフットボーラーのなかでは抜きん出ていた。C大阪でプレーしていた彼と、そのプレーについて話したこともあり、柏に移ってからも彼は気になるプレーヤーの一人だった。
 黄善洪より半年若い洪明甫(ホン・ミョンボ)も90年、さらに2歳年少の盧延潤(ノ・ジュンユン)は94年からの代表組、Jでも活躍した3人に共通しているのは姿勢がいいこと、それが彼らの選手寿命を長くしている理由の一つだろう。総じて、90年の韓国代表には従来の力闘系とは違ったスタイルのプレーヤーが多かったのも面白い点だ。いまその90年組の2人がワールドカップを母国に迎えるときに、若い選手たちの先頭に立ってたたかう。
 イタリアでも米国でも、フランスでも、素晴らしい頑張りを見せながら勝てなかった彼らほど、ホームの声援のありがたみを感じている者はいないだろう。千載一隅のチャンスにかけるベテランたちの気持ちは、後輩たちにも浸透していくに違いない。その彼らを選び、身体を鍛えたヒディングの眼と腕もさることながら、2人のベテランがJリーグで円熟期を迎えたのだから日本のサッカーもまた、世界へささやかな恩返しをしていることにもなる。
 ウイングスタジアムの記者席に上がると、試合前のセレモニーだった。そして、ロシア共和国の国歌として旧ソ連邦の国歌が吹奏された。オリンピックの表彰シーンで何回も聞かされた、あの荘厳で堂々たるメロディーは、わたしにもなじみのあるもの。
 91年のソ連邦解体で、まず11の共和国による独立国家共同体(CIS)をつくり、後に16の共和国に分かれてしまう。そのCISで参加した92年欧州選手権スウェーデン大会では、ソ連国家に代えてベートーベンの第9交響曲の「歓喜の歌」を歌ったことを思い出した。ソ連邦のスポーツの伝統を引き継ぐロシア共和国では、新しい国歌創立も考えはしたが、結局、新国歌ではなく、旧ソ連国歌をあてることにしたのだった。
 そのロシアのスターティング・リストには黄善洪と同年代の大ベテランで攻撃の核となるモストボイの名はなかった。それが、チームにどのように影響するのか、これから明らかになるはずだった。 

(週刊サッカーマガジン2002年10月2日号)

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