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米国の成長、そして再び強国に波乱

「このバスも便利だな」と思う。
 JR芦屋駅の1つ東の西宮駅、その南口を9時55分に出たバスは湾岸道路を関西新空港、いわゆる「関空(かんくう)」に向かっていた。6月6日のこの日は、午後1時発の大韓航空(KE)732便で、この日は釜山(プサン)に向かう予定だった。
 前日でワールドカップの第1ラウンド各グループに1回戦は終わり、この日は、釜山でフランス―ウルグアイ、大邱でセネガル―デンマークのAグループ第2戦と埼玉でEグループのサウジアラビア―カルメンが予定されていた(同じE組のドイツ―アイルランドは、前日に1―1で引き分けた)。
 釜山の次の日は全州でスペイン―パラグアイ、西帰浦でブラジル―中国と回るが、この韓国の南部地方の旅は、いつもの独り歩きではなく、旅行会社の組んだセットに合流させてもらうグループのツアーだった。
 
米国3―2ポルトガル

「ポルトガルがアメリカに負けましたネ」
 そのツアーの仲間の本多克己氏がうしろの席から声をかける。
「前半に3点も取られたからネ」
 前日、神戸ウイングでロシア―チュニジア戦の後、テレビで開始後4分に米国がオブライエンのシュートで先制したとき、ワーキング・ルームでワーっと声が上がったのを思い出す。
 原稿を書き上げて、スタジアムのすぐ近くの新聞社の基地に届けるという仕事があったから、テレビ観戦はチラリチラリていどだったが、米国の方に勢い≠ェあった。
 1点目は左FKからのボールをマクブライトがヘディング、GKビットール・バイーアがファンブルし、落下したところにオブライエンがいて、2メートルの至近距離から左足でたたき込んだ。
 2点目はドノバンのクロスがジョルジ・コスタに当たってのオウン・ゴール。3点目はサネーの左からのクロスをマクブライトがヘディングで決めたが、ポルトガルのDFは競り合うこともできなかった。
 不運もあり、ミスもあったが、20歳のドノバンや左サイドの小柄な黒人ビーズリーをはじめ、米国のスピーディーな動きにポルトガルはまったくお手上げの感――。
 米国にとっては、1950年のブラジル大会でイングランドを1―0で破ったとき以来の大金星だが、半世紀前と違ってメジャーリーグ・サッカー(MLS)や海外リーグで腕を磨いた、米国育ちのプレーヤーの実力アップは目ざましい。オランダやドイツの激しいプレーでもまれた彼らを相手に、ミスがらみで失った3ゴールはフィーゴやルイ・コスタたちの技巧と老練をもってしても、回復するのは至難だった。

ロシア、慎重なスタート

 神戸の試合では前半は期待外れ。ロシアの評判の組織プレーを見ることができなかった。スペイン・リーグで活躍するプレーメーカーのモストボイを欠いたこともあった。H組でもっとも非力なチームとされているチュニジアを相手に、極めて慎重なたたかいぶりだった。
 午後3時30分キックオフ、いわば日中の試合の疲労を考えてのペースだったのかもしれないが。次の日本代表の相手を意識する人たちは「ロシア組みしやすし」と思ったかもしれない。
 チュニジアのシュートが3、CKが4。ロシアのシュートが6、CKが1という数字を残して退屈な前半が終わると、後半はピッチに活気がよみがえる。スタンドの影で日差しが弱まったこともあるだろうが、交代メンバーのMFのホフロフとFWのシチェフ投入の効果もあって、ロシアの攻勢が強まる。
 10分間にシュートが5本、CKが1本。59分に後半2本目のCKをキャッチしたチュニジアのGKアリ・ブムニジェルがクリアボールをロシア側にわたしてしまう。長身のロング・シューター、チトフがこのチャンスを逃さずに豪快な一発を決めた。
 こういうミスがらみの失点は尾を引くことが多い。5分後にスパルタク・モスクワの小柄のFWシチェフの突破を防ごうとジャイディがエリア内でファウルしてPK。カルピンが決めて2―0、勝負はほぼついてしまった。
 手の内を見せたとは言えないロシア・チームでただひとつ言えるのは、後半に出場した20歳の小柄なシチェフのうまく速いこと。ドリブルもいいし相手をかわしてからシュートへ持っていくところがいい。すでにロシア・リーグの得点王だが、これでもう一つサムシングを付け加えれば、もう一段上のプレーヤーになるだろう。そのきっかけとなる舞台が対日本戦であれば、こちらにとっては大変だが…。
 バスの窓の外は海だった。空港の大橋にかかっていた。

(週刊サッカーマガジン2002年10月9日号)

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