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フランス―ウルグアイ、難しく、感動的な試合

先達、藤田さんを思う

 ワールドカップが終わって、3ヶ月が過ぎた。J1が再開し、欧州は02―03シーズンに入り、イタリアやイングランド、オランダから日本選手の活躍が伝えられ、サッカー界はますますにぎやかに、忙しく、華やかになった。日本協会は岡野俊一郎会長が退き、川淵三郎が新しく会長(キャプテンというらしい)となり、代表監督となったジーコにも期待がかかることになった。
 そんななかで、私にとって衝撃的なニュースは、第6代日本協会会長だった藤田静夫さんが、9月27日に亡くなったことだ。1911年(明治44年)生まれの91歳だから、大往生≠ノは違いないが、私には、まだまだ聞きたいことのいっぱいある$謾yだった。
 大戦後に復員して京都にしばらく住み、昭和20年代から親しくさせてもらい、一緒にプレーもさせてもらったが、京都と関西と日本のサッカーや、国体や体育協会について、自らが関わってきた実践者であり、生き字引≠セった。
 釜本邦茂の素材に注目し、その成長をバックアップしたことは知る人ぞ知る。9月29日の告別式には釜本はアジア大会日本チームの役員として滞在中の釜山から飛んで帰り、棺を担った。
 91年の生涯のほとんどをサッカーに費やしたこの先輩から話を聞き、多くの人に伝えるべきことが多かったのに――話をじっくり聞かしてもらいますから、と何度も言いながら、ここ数年はお目にかかる回数が減っていたのが誠に残念なことだった。

本連載とFC JAPAN
 
 13歳年長の偉大な先輩を見送りながら、私自身も、人生の晩年と言われる時期に差し掛かっているのに、あらためて気が付いた。ワールドカップが終わってすぐ7月に左下腹部の「そけいヘルニア」手術をし、8月には大腸ポリープを切除した。
 どちらも新しいものではなかったが、健康を売り物にしていても、ここ2年で、3度の手術と入院をすれば、歩くスピードも遅くなり、距離も短くなる。もちろん、体力回復を心がければならないが、書き物についても、少しこれまでと違ったのに手を出そう。
 幸いなことに、インターネットのホームページも作ってもらっているから、これからはそれに、自由気ままに書いてみたい。そしてまたインターネットを通じて、サッカー好きからの質問をいただき、その質問によって頭の中の引き出しから、何かを文字にしたいなどと考えるようになった。
 もちろん、この隔週連載は、私の楽しみであり、ライフワークの一つ。この記述と私のホームページ(www.fcjapan.co.jp)の「賀川浩の片言隻句」は、不即不離のものと考えている。読み合わせていただければ、誠に幸いのことと思っている。
 さて、今回の旅では、いまアジア大会が開催中の釜山で6月6日、第1ラウンドAグループの第2戦、フランス―ウルグアイを見る。

釜山・アジアード・メーン・スタジアム
 
 スタジアムは広く長いアプローチの坂の上に堂々たる姿を見せていた。釜山ロッテホテルに集まった私たちのグループは、ガイドさんとともにバンでスタジアムへやって来た。
 今回の韓国スタジアムは、それぞれ地名にワールドカップ・スタジアムと入っている。ここ釜山も例外ではないが、別の呼称は「BUSAN ASIAD MAIN STADIUM」。
 古くから港として栄えたこの地は、日本の統治時代にも関釜連絡船が下関と釜山を結んでいた。1945年(昭和20年)の大戦末期に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の黄海側の海州に近い飛行場にいた私は、3月の赴任のときも、10月の復員のときもこの釜山港を経由したのだった。どちらも一日の滞在だから、町の記憶はほとんど残っていなかった。
 いまや人口370万人。ソウルに継ぐ韓国第2の都市であり、神戸をしのぐほどの船の出入りを誇る町のにぎわいはさすがだが、、アジア大会を誘致し、ワールドカップの会場の一つとなった町の勢いは、このスタジアムへのアプローチの立派さに表れていた。だができたばかりのスタジアムは充分には知られておらず、わがバンのドライバーが連れて行ってくれたところは、古い競技場だったという一幕もあった。
 午後8時30分からの試合は、互いにシュートが1〜2本あって、いよいよこれから、というときの25分に、フランスのアンリが靴底を見せてのタックルのためレッドカードで退場、10人の不利となった。ジダンが出場していない上に、さらなるハンディを背負ったフランスが、「勝ちにくいゲーム」であるウルグアイを相手に攻める試合は、まことに感動的であったし、ウルグアイのレコバのプレーもまた、魅力的だったが…。

(週刊サッカーマガジン2002年10月23日号)

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