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ヒルズボロの悲劇

 1989年5月8日付のロンドン・タイムス(THE TIMES)の1面に、こんな見出しがあった。
「ヒルズボロの苦しみから3週間後、オールド・トラフォードで、リバプールにとって喜びの日がきた」。
 そして、リバプールの監督ケニー・ダルグリッシュが、両手を広げて、トレーナーのロニー・モーランと抱き合おうとしている写真が飾られていた。

 1989年4月15日、シェフィールドのヒルズボロ・スタジアムで起きた事件は、まことに痛ましく、また、大きな最悪の人災だった。
 昨年8月27日に始まったリーグも、9月3日に始まったFAカップも、順調に日程を消化し、リーグではアーセナルがトップを走り、FAカップでも準決勝に駒を進めていた。
 その組み合わせは、リバプール対ノッティンガム、エバートン対ノーリッジ。一発勝負(ホーム・アンド・アウェーでない)の準決勝は、中立地帯のグラウンドを使うことになっていて、リバプール―ノッティンガム戦は、リバプールから80キロ、ノッティンガムから40キロのシェフィールド市のヒルズボロ・スタジアムが会場だった。

 人気チーム同士の対戦で、5万4千人収容のスタジアムは、試合の始まる前にすでに満員だったが、午後3時に試合が始まってしばらくすると、場内に混乱が起きた。スタジアムの外から中へ入ろうとするリバプールのファンの勢いに、ゲートが開けられ立見席へ、どんどん観衆が入ってきたのだった。スタンドへあふれ出るように入ってくる人波に押されて、客は下へ降りる。だが、スタンドの最前列には2メートルの頑丈な金網がめぐらしてある。
 たまりかねて、その金網をよじ登る者もいた。だが、登れる人はまだいい。後ろからの重圧と金網とで圧迫され、圧死者が続出し、死者94人(のちに1人増えて95人)、負傷者200人以上という、イングランド・サッカー史上最大の事故となった。


(サッカーダイジェスト 1989年「蹴球その国・人・歩」)

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