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耽羅のくにでのブラジルの攻撃

清州空港で

「日本と同じようなスーパーが、ホテルのすぐ近くにあるというのは便利ですね」
 集まった仲間は、ポリ袋をさげていた。6月8日、朝7時30分、もう私たちのバンがホテルの前に待っていた。前々日に釜山でフランスがウルグアイと引き分けてるとみて、次の7日には全州でスペインの2勝目(3―1パラグアイ)を取材した。この日の予定は、済州島の西帰浦でのブラジル―中国戦だった。ただし、そこへ行くのに4時間ばかり北上して、清州の飛行場で大韓航空機に乗るのだと聞いて驚く。
 FIFAのメディア・ガイドのは、60キロ西に郡山空港があるとなっていたが、経路や便数の関係で清州からになったらしい。したがって、出発も早く、朝食はスーパーで売っているもので適当にということにしたのだった。
 清州空港に到着してみると、大韓航空の出発便は3本だけで、その一つが済州島行きだった。ただし、11時30分発のKE953便は、現地が霧のため、13時まで待てという。空港レストランで、カルビ・スープと白いご飯の食事を摂りながら時間をつぶす。

司馬遼太郎と韓のくに

 霧の話から、久しぶりに57年前の陸軍パイロットであったころ、いまの北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の海州市近くの飛行場で、海霧(SEA FOG)に悩まされたことを思い出した。夜間飛行の訓練中に、霧がみるみるうちに飛行場一帯を覆い尽くし、着陸待ちの信号が出て、OKになるまで、暗い空を飛んでいたときの孤独感は、格別なものだった。戦争が終わって38度以北にあった海州から、南の鳥致院へ移動して、2ヵ月後に釜山から帰国、復員した。
 鳥致院へは、この大会を機に、5月末に訪れてみた(連載の1、2に記載)のだが、この日、全州から大田を経て、その鳥致院のすぐ東にある清州へやってくるとは――。
 飛行機が遅れたおかげで、地図を広げて朝鮮半島の西南部での半世紀前の自分と、いまの旅とを重ね合わせることができたのは幸いだった。
 この日走ってきた一帯は、6世紀の日本に佛教を伝えたとして、私たちにもなじみの深い百済王国があったところ。ハングルではビェッジェというらしい、この百済王国を、私たちがくだら≠ニ呼ぶようになった理由について、司馬遼太郎さんの街道をゆく≠フ『韓のくに紀行』にも記されている。
 私より1歳上で産経新聞でも先輩の記者であったこの人の歴史小説も素晴らしいが、街道をゆく≠焉Aそれぞれの地域を旅しながら膨大な知識を駆使して、そこから生まれてきた文化を描きだし、だれにも分かりやすく読ませてくれる名作だ。関西に住み、韓国の人たちとの交流も深く、朝鮮半島に親しみと心の痛みを持っていた司馬さんは、今度のワールドカップの共催を、天からどのように見ているのだろうか、とも思う。

ロベカルの一発に沈黙

 済州島は古代は耽羅といった。司馬さんの街道をゆく≠ノは「耽羅紀行」もあるが、ここはまずワールドカップに話を進めよう。
 空港は島の北側、つまり朝鮮半島側、大きくいえば大陸側にあり、試合会場のある西帰浦は、南側にある。新設のスタジアムは船を型どっているとかで、モダンなデザイン。例によってバンの駐車場を確認し、仲間と別れてスタジアムのメディア・センターで記者用チケットをもらう。
 中国からの応援ツアー客で、スタンドはにぎやかだった。面白いのは、若いサポーターたちが、中央のロイヤルボックスのFIFA役員にサインを頼んでいたこと。ヨハンソン副会長が気軽に引き受けるものだから、われわれも次々に群がってくる。
 韓国の鄭夢準会長がたしなめるような身ぶりをしたが効き目はなかった。これも中国の解放≠フ表れだろうか――。それにしても、スウェーデン人ヨハンソンさんのサービス精神はたいしたものだ。
 試合前の国歌の大合唱と、それに続くサポーターの大声援を受けた中国イレブンは、試合開始からしばらくは元気よくたたかった。パスを正確につないでの攻撃もあったし、シュートやゴール前へのクロスもあった。
 勢い付いたスタンドを沈黙させたのは、ロベルト・カルロスの25メートルのFK。ロナウジーニョへのファウルで得たチャンスを決めた一発は、右よりの位置から左足でゴール左上隅、ネットの奥へ飛び込む痛烈なものだった。これが、久しぶりに堪能できた、ブラジルの攻撃の序章だった。

(週刊サッカーマガジン2002年11月20日号)

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