賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >ロナウド復活の驚きと喜び

ロナウド復活の驚きと喜び

 旅行代理店から、ブンデスリーガの入場券についての問い合わせがあった。何人かの女性が見に行くのだという。GKカーン人気もあるだろう。ベッカム、稲本のプレミアシップ、中田や俊輔やトッティのセリエAだけでなく、ドイツにも目を向ける人が増えているとは――。
 もっとも、そのカーンの評判がこのところ悪いという。また、彼のチームも欧州チャンピオンズ・リーグでは敗退――まこと、サッカーの世界はうつろいやすい。
 そんな変転の激しいなかで、いまさら2002年ワールドカップでもあるまい、ともいえるが、忙しい世の中だからこそ、振り返って読んでいただくのも悪くないと、隔週連載を続けさせてもらっている。今回は2回目の韓国取材から、横浜へ向かうところ。
 なお、この旅≠ニ並行して、私のホームページで、賀川浩の「片言隻句」というメールマガジンを始めている(http://www.fcjapan.co.jp/kagawa)。そのなかに、私の友人で、英国の大記者、ブライアン・グランビルの「2002年ワールドカップ」も加わる予定。この旅とあわせてお楽しみください。問い合わせは、admin@fcjapan.co.jpまで。

耽羅の国と別れて

「これで今夜の日本対ロシアを見られるのだな」と思う。釜山・全海国際空港を11時に出発した大韓航空機は成田に向かっていた。
 この日の朝、済州島、西帰浦に近いネイヴー・ホテルを6時40分に出て、済州空港発8時のKE1000便に乗り1時間足らずの全海空港で、国際線に乗り換えた。
 ツアー仲間の6人のうち、木村夫妻たち4人は済州島での観光に残り、私は本多克己氏と全州まで同行し、彼はそこで大阪(関空)、私は成田空港を経由して、横浜での試合へというスケジュールだった。本当のところ、済州島にはもう少し滞在したかった。
 57年前の大戦末期に陸軍のパイロットであった私は、第5航空軍の413飛行部隊という特攻隊の一員となり、米国の本土上陸に対応することになっていた。その作戦区域が朝鮮海峡で、攻撃に飛び立つ基地として、木浦または済州島と知らされていた。済州島は中央が高原状の台地で、そこから離陸すれば、高度な800メートルで、そのまま周辺にやってくる米軍の船を攻撃できる、とのことだった。
 実際に、この島にそうした飛行基地があったのかどうか(おそらく計画だけだったのだろう)、私たちの基地は、木浦という、朝鮮半島の南西の先端北部近くに決定。その木浦に展開する前に、大戦は終わった。以来、この島は、心のどこかに引っかかっていた。司馬遼太郎さんの「街道をゆく」のシリーズの「耽羅紀行」で一層、ひかれるのだが…。

ロナウドに好調時の姿

 その済州島で久しぶりに生で見たブラジルを振り返る。
 第1戦でトルコの粘りにやや手を焼きながら、2―1で勝った彼らは、中国を4―0と突き放した。ミルティノビッチという戦略家の監督の下で、中国は開始後は積極的にパスをつなぎ、シュートへもっていったのだが、ロベルト・カルロスの強いFKでリードされ、残りの75分は実力差がそのまま出た。
 お目当ての3R、ロナウド、リバウド、ロナウジーニョの攻撃陣は、ジュニーニョや両サイドのカフー、ロベルト・カルロスなどの支援もあって、2、3、4点目を生み、決めてくれた。2点目は、ロナウドが競り合ったこぼれ球を拾ったロナウジーニョが、左から低いクロスを送り、リバウドが決めた。そのクロスが出るときのロナウドの飛び出しに中国DFはつられて、リバウドをノーマークにした。
 3点目は、ロナウドはエリア内で倒されたPKを、ロナウジーニョが蹴り込んだ。これはジュニーニョとロナウジーニョとロナウドのパス交換から、ロナウドがボールを右足インサイドで止めて、相手二人をかわしてシュートしていこうとして、右足を引っ張らされて倒されたもの。ボールを止めてから前へ出ていく速さと巧みさに、回復ぶりを見た。
 お膳立てにかかっただけでなく、チーム4点目はロナウドのゴール。55分、深く侵入したカフーからのクロスをゴール。正面で決めた。
 4年前のフランス大会決勝で、不可解な変調ぶりと、その後のヒザの故障。ヒザの故障はスポーツでは致命傷≠ニ思い込んでいた古い頭は、ロナウドの回復を信じられなかったのだが、これらのプレーは、それを覆すものだった。耽羅の国は私に、ロナウドとブラジルの復活という驚きと喜びを与えてくれた。
 気が付くと飛行機は、琵琶湖に近づいていた。左窓下に、懐かしい比良の連嶺と安雲川があった。

(週刊サッカーマガジン2002年12月4日号)

↑ このページの先頭に戻る