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Eグループ首位のドイツと監督ルディ・フェラー

明けましておめでとう。

 日本サッカーにとって特筆すべき2002年は去り、2003年に入った。2002年のワールドカップの大報道のおかげで、日本の多くの人にサッカーそのものの楽しみと、サッカーを通じて世界を見る楽しみの扉が開かれた。
 日本のスポーツ史上では、1964年の東京オリンピックが全国民に与えたインパクトは大きいが、テレビをはじめとするメディアの大報道のおかげで、今度のワールドカップはその東京オリンピックをしのぐ大きな影響を与えたといえるだろう。
 そしてメディアもまた、この大きなイベントを経験したことで、スポーツをこれまでと違った目で見ることになるはずだ。
 さて、ワールドカップの旅は、まだ一次りーぐの3戦目にかかったところ。大会の13日目に入った6月12日の話である。

ドイツの立ち直りのなぞ

「それにしてもドイツの後半の変貌ぶりは…」と車中で思う。
 6月12日の早朝、浜松を出て、名古屋で乗り換えた東海道新幹線の「ひかり」号は、伊吹山を右に見て、湖国へ入っていった。私には久しぶりの関西だった。
 5月28日に関西新空港からソウルに向かって飛び、5月31日の開幕試合以来、韓国と日本の各会場を回っていった。6月5日にHグループのロシア対チュニジアを神戸で見たときに、芦屋の自宅へ戻ったが、それからまた旅に出て、前日、静岡でEグループのカルメーン対ドイツを取材した。この日は大阪・長居でFグループのナイジェリア対イングランドを見る予定だった。
 ドイツの変貌というのは、静岡の滑りやすいピッチで、カルメーンを相手に苦しい対応ぶりだった彼らが、10人の不利となった後半に入ると、1対1の奪い合いにも落ち着きを見せ、一人少ないのにもかかわらず、効果的な攻撃を仕掛けて堂々たる勝ちを収めたことだ。
 メディアのなかには、両チーム合わせて16枚のカードの新記録≠フ方に目を向けるところもあったが、私にはドイツのイレブンの試合運びの巧みさとともに、前半と後半の変わりようが面白かった。また、それがどこから来たのか――フェラー監督がハーフタイムに適切な指示を出したのか、もしそうならどのような指示だったのか――。

選手フェラーの戦術的ドリブル

 監督ルディ・フェラーについては、いささか勉強不足だが、プレーヤーとしてなら86年以来の3度のワールドカップや欧州選手権などで、ストライカーぶりを見ている。
 そのゴールシーン、86年の対フランス準決勝での2点目、前進していたGKの頭を越すロブのシュートや、決勝(対アルゼンチン)の2点目(同点)の落ち着いたヘディングなどは、いまも頭の中に情景を描くことができる。
 しかし、チャンピオンになった90年イタリア大会の一次リーグの対コロンビアで見せた彼の戦術的なドリブルの印象は、シュートシーンよりも強烈に残っている。
 あれは一次リーグの第3戦だった。初戦でユーゴスラビアを4―1で撃破し、ついでにアラブ首長国連邦を5―1で一蹴した後だった。コロンビアのGKイギータの前進と、ディフェンス・ラインの巧みなオフサイド・トラップを多用する守りに、ドイツは手を焼いて、タイムアップ近くまで無得点だった。
 しかし、89分にフェラーが右サイド、相手側20メートルあたりから中央へ、ゴールラインに並行する形のいわゆる真横へドリブルして、相手のディフェンス・ラインを混乱させ、スルーパスを流し込んだ。そして第2列から走り込むリトバルスキに合わせ、そのシュートで得点した。
 安定した守備ラインを混乱させるために、ゴールラインと並行にドリブルする例は、60年代のエウゼビオ(ポルトガル)をはじめ、何度か見たけれど、このコロンビアのディフェンス・ラインに対するフェラーの真横へのドリブルとそれに続くパスから生まれたリトバルスキのシュートは、オフサイド・トラップを崩す見事な手法だった。
 こういう手法を試合中に考え、実行できたフェラーだから、監督、コーチとしての経験は少なくとも、代表チームを任されたのだろうと思いながら、ふと、2日前の6月10日にスカイパーフェクTVのスタジオでのことを思い出した。
 中継画面を見ながらのトーク番組に出演したこと、そのときリトバルスキと会い、この90年ワールドカップのシーンを話し合っていたのだ。あのとき、フェラーについてよく聞いておけばよかったのに――。
 列車は山科を過ぎ、東山トンネルに差し掛かった。
 
(週刊サッカーマガジン2003年1月22日号)

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