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ロナウド、奇跡の復活

クラマーとの再会

「オー。ミスター・カガワ。元気ですか」
 懐かしい声と顔があった。
 2002年6月13日。大阪ミナミのホテル日航のロビーにデットマール・クラマーがいた。
 日本サッカーの恩師として知られるクラマーが、JFA(日本サッカー協会)の招きで大会観戦に来ていると聞いていたので、協会に問い合わせると、彼と同行している日本サッカー指導者協議会の樋口新(ひぐち・あらた)氏から連絡があり、この日は大阪にいるという。頼みたいこともあり、とりあえず訪ねた。
 彼とは2002年に中国、秦皇島で会って以来だったが、相変わらず元気――。樋口氏によると、何回かの指導者研修会はあるが、その数が少ないと、本人は不満らしい――。
 大先生の年齢(77歳)のこともあり、できるだけのんびりと日本での大会を楽しんでもらおうという協会関係者の配慮なのだが、ぎっしり詰まったスケジュールをこなしてきたこの人には、物足りないのだろう。
 この大会の感想はと聞くと、「会場も立派だ。日本代表もよくやっている。とてもうれしい」と、せきを切ったように話し始める。
「あなたが1960年にやって来たときは、日本代表を指導するのにキックやヘディングの基本から始めなければならなかった」
「うん。日本人特色の速さを生かすためには、技術を上げることが大切だった。選手たちは熱心に練習したから、その技術が速さを生かすレベルまでになりメキシコ・オリンピックの成果が出た。いまの代表はしっかりした技術を持っている」
「実は、そういう話を多くのジャーナリストや一般の人たちの前でしてほしい。6月17日に、神戸市の東端にある六甲アイランドのファッション美術館で、私とのトークショーに形で行いたいのだが…」
「スケジュールが空いておれば、問題はないよ」
 話はドイツ代表のこと、フランスやアルゼンチンの敗退のこと…あっという間に時間は過ぎた。

カマモト、カワモト、ストライカー

 1960年から日本代表を指導するとともに、指導者育成にも力を入れたデットマール・クラマーの功績はいまさら紹介するまでもない。私と同年輩の彼とは、同じ戦中派ということもあって、初日以来、何度も何度もサッカーの話をした。
 しかし、この日の二人の会話のなかで、竹腰重丸(たけのこし・しげまる)、川本泰三(かわもと・たいぞう)たちベルリン・オリンピック(1936年)のころの先輩たちのことに話が及んだのには驚いた。
 日本サッカー技術史のなかでは、この二人は、いわば「クラマー以前」――旧世代ともいうべきだが、彼は竹腰さんとの話し合いで、日本人のすばしっこい(クイック)特性を生かすべきだと知り、川本さんとの対話のなかで、そのサッカーの造詣の深さに感心したという。
 その先日たちに言及する導入部が「カマモトではなくカ――なんとかという人が大阪にいた。それを樋口さんに聞いたが、分からないので…」と言ったのに、私が「カマモトでなく、カワモトでしょう」といったことからだった。おそらく、川本さんとはストライカー論をたたかわせたから、カワモトとカマモトの名が入り交じったに違いない。

ロナウド復活、ブラジル上昇

 大会は前日までに第一ラウンドの各グループリーグのうち、A、B、E、Fの4組が終わっていた。この13日はCとGの各組の第3戦の2試合ずつが組まれていた。午後に韓国の会場で行われたC組では、ブラジルがコスタリカに5―2で快勝。トルコが中国を3―0で破って、ともに第2ラウンドへ進んだ。
 ブラジルではロナウドが10分と13分にゴールを挙げた。6月8日に韓国の西帰浦でロナウドのプレーを実際に見ていないから、まだどこかに疑いを残していた私も、その回復を信じないわけにはいかなかった。
 比較的、楽なグループに入ったことも幸いしていたのだろうが、南米予選でさっぱりだったブラジルは、どうやら天性のストライカーの復調とともに、本来のワールドカップの主役の姿になろうとしていた。
 それにしても、大会前の兵庫サッカー協会のフォーラムに出席したフリーランスの増島みどりさんが、優勝予想のときに「皆さんが言わないから、ブラジルにします」と言ったのを思い出す。古い時代の記者である私では、最も大切なヒザをあれほど傷めたプレーヤーが回復するとは信じられなかったのだが、勉強家の彼女は現代医学について調べていたのかもしれない。
 77歳になっても、まだまだ学ぶことは多い。大会中盤であらためてそう思った。

(週刊サッカーマガジン2003年2月19日号)

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