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自宅から1時間のワールドカップ 長居スタジアムとの40年

64年の大阪トーナメント

「自分の家から電車に乗って、ワールドカップを見に行けるとはネ」
 2002年6月14日の昼前、JR芦屋駅のプラットホームで思う。ここから東へ快速電車で大阪駅まで15分。大阪市営の地下鉄・梅田駅から長居駅まで18分。駅の階段を上がり東へ出ればもう長居公園、そのなかに長居スタジアムがある。
 若いサッカーファンにはC大阪のホームグラウンドとして知られているが、大阪の産経新聞でスポーツ記者のスタートをした私には、この競技場は竣工以来、40年近い付き合いだ。
 正式には大阪市立長居陸上競技場と呼ぶ。このスタジアムは競技場の跡地を利用して東京オリンピック(1964年)のときに建設された。そのこけら落としに開催されたのが、東京オリンピック蹴球競技5・6位決定戦「大阪トーナメント」だった。
 これは、せっかくオリンピックを日本で開くのに、東京だけでなく、地方でも本番のサッカーを見たいという願望から、私がグループリーグの一部を関西ですることを提案した。当時の関西協会・川本泰三理事長が推進力となって、オリンピック組織委員会の与謝野秀(しげる)事務総長と接触した。
 グループリーグの開催地を箱根から西へ移すことは難しいということから、FIFAのラウス会長の助言で、準々決勝の敗者4チームによるFIFA主催の大阪トーナメントを開き、大会の5、6位を決める(賞状とメダルを贈る)ことになった。
 この大会は1964年10月20日午後2時から、京都の西京極と長居で、まずルーマニア対ガーナ(4―2)、ユーゴスラビア対日本(6―1)が行われた。10月22日には、長居で勝者同士のルーマニアとユーゴがたたかい、ルーマニアが3―0で勝った。
 東京・駒沢での準々決勝(10月18日)で、チェコに4―0で敗れた日本は、ともかくもDグループのリーグでアルゼンチンに勝って、準々決勝へ出たことで、宿願を果たし、選手たちは気力を使い果たしたという感じだった。だから敗戦も致し方ないが、東京で得点できなかった釜本邦茂は1点を取り、4年後のメキシコ・オリンピック得点王へのステップを踏み出している。
 私としては、オリンピックによる東京への一極集中の流れのなかで、関西にもサッカーのプラスとなることを考えての提案だった。しかし、この大会のおかげで、当時の大阪陸上競技協会の春日弘会長の英断で、長居の芝生のグラウンド内に設けられる予定の走幅跳の設備が、ピッチの外へと変更になったのも、ありがたいことだった。川本理事長の努力のおかげで、スタンドもにぎやかになり、入場料収入はその後しばらくの関西協会の資金となった。

田嶋幸三のラストゴール

 ただし、東京への一極集中の流れは止まることなく、大正7年(1918年以来)、関西で続いていた高校選手権が昭和52年(1977年)から首都圏へ移ってしまう。その関西最後の会場となったのが、長居だった。昭和47年(1972年)から大阪の読売テレビの努力もあって、観客数も伸び始めたときに、日本テレビと日本協会の意向で移転が決まったのだった。
 昭和51年(1976年)1月8日の決勝、関西でのラストとなる決勝で、ゴールを決めたのが、いま日本協会の技術指導のトップに立っている田嶋幸三、浦和南のFWだった。高校選手権の首都圏移転は、関西人たる私にはつらいことだったが…。
 地下鉄のなかで、なお、頭の中を駆け巡る想いが、急にワールドカップへ飛んだ。そう、この首都圏への計画を私が日本テレビの担当の坂田信久(東京V社長)から聞いたのは、1974年西ドイツ・ワールドカップで、フランクフルト―ベルリン間の飛行機のなかだった。筑波大で今西和男(元・広島総監督)と同期で、のちに読売クラブの創設にも関わる彼は、このころ日本テレビでサッカー興隆に知恵をしぼっていたのだった。
 私の記憶に誤りがなければ、西ドイツ大会の開幕試合が6月13日だったから、その翌日、西ドイツ対チリの試合のために飛んだのは、6月14日のはずだ。つまり、28年前のきょう(時差はあるが…)ということになる。
 前の日、初めてのワールドカップ、ジャイルジーニョのブラジルとジャイッチのユーゴの迫力に満ちたたたかいに酔い、次の日ベルリン・オリンピック・スタジアムで、これも初めての生のベッケンバウアーやゲルト・ミュラーを眺め、ブライトナーのシュートに感嘆したのが、6月14日。私のクロニクルのなかでも、重要な一つだ。スタジアムに向かって歩きながら、きょうは良いことがあるだろうと期待が高まるのだった。

(週刊サッカーマガジン2003年3月5日号)

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